
1月7日

『新潮』に掲載した大江健三郎氏の小説『(らふ)たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』が、中国で「21世紀年度最優秀外国小説」に選ばれたとの知らせが届いた(関連記事)。自分が担当した小説が海外の文学賞を受賞したのは初めての体験だ。思い入れの深い作品が国内の文学賞を受賞したら、もちろん本当に嬉しいのだけど、今回はなんだか、ゴールポストに向けてシュートをした意識もないまま、球はルールに支配されたグラウンドを超え、海をわたって、未知のゴールに届いたような気がした。
1月8日
創刊されてからまだ2号目の韓国の文芸誌『子音と母音』のチームが会社に来訪。社長のKang Byung Cheolさんは僕と1歳違いで、最年少は編集委員の29歳の人気女性作家Kim Ae-ranさん(フィッシュマンズが大好き)。そして編集長(女性)のJung Eun Youngさん、日本に留学されていたエグゼクティブディレクターのSung Lim Leeさん、小川洋子から東浩紀までの日本文学をカヴァーする編集委員で小説家のPark Seong Wonさん。スタイリッシュなデザインの最新号を前に雑誌の内容や方向性を少しうかがうだけで、「この人たちとは価値観を共有している」と感じられた。あとは具体的に協力プロジェクトを提案しあえばいい。そういえば、僕が編集者として初めて編集した単行本は、韓国人作家チャン・ジョンイルの長編小説『アダムが目覚めるとき』(1992年)で、そのことを語ると彼らは目を丸くしてくれた。少年院を出たあと、独学で勉強し、フランスの思想家ルイ・アルチュセールについて熱く語っていたジャン・ジュネみたいな彼。日韓文学シンポジウムで来日した彼は、ホテルを抜け出して、僕の狭いアパートに泊まりにきてくれたのだった。「彼はすごい作家です。でも、今は小説を書いておらず、大学で教えています」とのこと。Kimさんが彼と近所に住んでいるとのことで、「ぜひよろしく」とお願いした。
食事の席も大いに盛り上がり、作家や編集者も多い新宿のバー「猫目」に移動。お店においてあった森山大道氏の写真集『北海道』(重量5キロ)や大竹伸朗氏の『全景』展カタログ(重量6キロ)をみんなで見合ったり、「いしだあゆみのブルーライト・ヨコハマが聴きたい」というParkさんの要望がなぜかその場で実現し、男同士のチークタイムになったり、謎の一気飲み大会に突入したり……。文学の友人が得られてメデタシメデタシ? しかし、「今は韓国文学、海外文学、批評の3本柱だけど、今後はこの3つをそれぞれ専門にする3つの文芸誌を出したい」という壮大な構想は彼ら彼女らのものだ。「日本にも中国にも年に数回は足を運び、それらの国との間に文学的な公共空間を作りたい」という情熱も彼ら彼女らのものだ。閉じたグラウンドから元気よく飛び出したのは彼らであって、僕ではない。本当に会えて良かった。
1月9日
東京に初雪が降った日、遅い電車で三崎港へ。夕食を摂っていなかったので、港の居酒屋、魚由に直行。ここはマグロに見向きもしないから、観光ガイドにぜったい載らないが、素晴らしい居酒屋だ。まだ来店3回目だけど、寡黙だと思っていた店長が三崎のことをいろいろ喋ってくれた。彼も一時はマグロ船員だった昭和30年代~40年代冒頭の三崎黄金時代について。半年を超える長期航海で、2年で家が建つ報酬(ただし、使わなければ……)を得た船員たちが次から次へと三崎に上陸してくる。「やっぱり酒と女でしょう」と店長。「何ヶ月も海の上にいれば、異常な精神状態になりますよ。喧嘩になれば、すぐに刃物が出てくるし」。網元の忘年会ではホステスさんが200人、そのうち100人は銀座から呼ばれたらしい。タクシーで銀座に飲みにいって、そのまま車を待たせて、また三崎に戻ってきたり。夜になれば殴り合いがたえず、道端には泥酔した船員がごろごろ転がっていたらしい(そう、マグロのように)。そして、この小さな港町に映画館が3軒あって、今も港のロータリー角にある小さなレコード屋は売り上げ日本一だったそうだ。この店に限らず、三崎港の老舗店に入ると、過去の黄金時代の記憶を郷愁をこめて語ってもらえる時がしばしある。また1人、港の知り合いが増えた。
1月25日


大竹伸朗氏が『新潮』で5年にわたって連載してくださったエッセイ『見えない音、聴こえない絵』が昨年末に単行本になった。この日、発売記念イベントとして、青山ブックセンター本店で大竹氏にトークをしていただいた(私は聞き手を務めた)。刊行後も継続中の連載ページは、見開きで8ポイント文字の3段組という『新潮』で一番窮屈な本文組だけど、それは大竹氏の言葉を1文字でも多く詰め込みたかったからだ。創造をめぐる純度100%の言葉に充ちた見開き2ページは、文芸誌『新潮』にとっての守護神だと思っている。
大竹氏と同じく文学者ではないが、『新潮』に1年間連載してくださった杉本博司氏の連載『現(うつつ)な像』も昨年末に単行本に結実した。NYに在住し、国際的に活動されている杉本氏が世界のどんなギャラリーや美術誌よりも先に、『新潮』に最新の構想を発表してくださるたび、極東の文芸誌が世界に向けて発信していることを実感できた。
寄稿家プロフィール
やの・ゆたか/1965年岡山県生まれ、文芸誌『新潮』編集長。89年、新潮社に入社し、雑誌『03 TOKYO Calling』創刊編集部に所属。以後、書籍編集者として文芸書、思想書、美術書等を担当し、2003年から現職。趣味は年間百泊する三浦半島三崎港での地魚賞味・調理。音楽・美術鑑賞。