

音楽が大好きだ。その結果として、愛すべき音楽を再生するオーディオも好きだ。元々は「音楽が素晴らしければ、音質なんでどうでもいい」と思っていたけれど、数年前にひょんなことで、少しマニアックなスピーカーを買ったのが運の尽き。ずぶずぶと泥沼にはまってしまい、気がつけば、自分の体重と変わらない大スピーカーで床が抜けそうになり、家計は破綻寸前。供給される電気のクオリティまで気になって、家の前の電信柱をまじまじと見上げる始末(いわゆる電線病)。散々な浪費をしてしまったけれど、収穫も大きかった。
1枚のディスクの音楽情報(音楽家やエンジニアが全身全霊をこめて封じ込めたもの)は想像以上に大きいことを知った。
幾度となく聴いたはずの愛聴盤をさらに幾度でも新たな形で<体験>できることを知った。
最高の機材がネジの1本にいたるまで一部の隙もない完成度を追求していること、そして製作者の狂気じみた情熱がそこに宿りうることを知り、自分がかかわる小説の仕事にも、その水準を求めたくなった。

大げさに言えば、編集者として得るものは大いにあったわけだ。他方で、悲しいことにも気づいてしまった──人間の耳は、必ずしも進化しているわけではないのだ。技術的なウンチクはさておき、モノラル録音からステレオへ、アナログ盤からCDへ、そしてネット配信へ、音楽再生は確実に簡単で便利でノイズレスになってきているけれど、ひとつの録音にこめられた「音楽的」な情報量は10年、20年単位で明らかに低下していると思うし、いまや人は高音質を求めていないような気さえする。iPod/iTunesは素晴らしいけれど、10分の1に圧縮された音楽情報が、ときに音楽の命そのものを圧縮しかねないのも事実なのだ。……というようなことと、下記の日記はぜんぜん関係ないけれど。
11月12日~13日
作家と小田原市を取材旅行。なぜ小田原なのかと言えば、作家の直感なのだが、作家も私も初めて訪れる都市なので、まずは市役所で街の概要をうかがってから、小説的アンテナと化した作家とひたすら歩く。昭和の風情が残る繁華街は人口20万人弱の都市にしては立派で、相模湾の海の幸を垣間見せる良質の鮮魚店があって、少し郊外に行けば、まるで京都のような古い町並みが残る。足の筋肉痛と引き換えに、まもなく書かれるはずの作品が09年の大切な仕事になる確信を得た。
11月14日
大ベテラン作家の住まいを訪ねて、日帰りで京都。その地区は住宅街でありながら、山のすぐ縁にあって、都市と自然がせめぎあう気配を感じた。日没後には人を内省的にさせる闇と静けさが張り詰めていた。この空気は京都にしかないものだと思う。そういえば京都での学生時代、お寺の多い小山の薄暗い道をひとりで歩いていたら、石垣の隙間という隙間から無数の死者の魂が彷徨い出てくる気がして、急に怖ろしくなったことがあった。
11月15日

批評家/小説家の東浩紀氏と批評家/編集者の市川真人氏の書店トークイベントへ。東氏が『新潮』で連載中の小説作品『ファントム、クォンタム』について、「もし余命があと半年しかないと言われたら、この小説の完成にすべての時間を使いたい」と言ってくれたのはすごく嬉しかった。他方、最新回で大江健三郎氏の生地と大竹伸朗氏のアトリエとしか思えない四国の場面を描いたのは「矢野さんへのサービスですよ(笑)」と公衆の面前で言われ、大いに赤面。打ち上げの後、終電で三崎港へ。
寄稿家プロフィール
やの・ゆたか/1965年岡山県生まれ、文芸誌『新潮』編集長。89年、新潮社に入社し、雑誌『03 TOKYO Calling』創刊編集部に所属。以後、書籍編集者として文芸書、思想書、美術書等を担当し、2003年から現職。趣味は年間百泊する三浦半島三崎港での地魚賞味・調理。音楽・美術鑑賞。