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  • 『新潮』編集長
    矢野優
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『新潮』編集長の東京編集長日記

第9回:極私的なテクノロジーの歴史
矢野優
Date: August 22, 2008
『新潮』2008年9月号

テクノロジーの進歩を予測すると、基本的に外れる。というか、絶対に外れる。少なくとも僕の場合は。それなのに、予想もしないテクノロジーが唐突に実現すると、短い期間の衝撃や混乱の後に、気がつくと日常的なものになっている。

1980年代の幕開けとともに高校生になった僕は、単音しか出ないYAMAHA製アナログシンセサイザーと多重録音用アナログカセットデッキで音楽を作りはじめた。そのときの僕にとって、音楽テクノロジーの驚愕すべき進歩とは、YMOが使っていたprophet(預言者)という名のシンセのように、音が同時に5つ出せて(和音が弾ける)、音色を合成するたくさんのツマミの設定をシンセ内に記憶できるということだった。CDはまだ存在していなかった。

当時の僕は、たった数年後の自分がサンプリングマシンと呼ばれる機械でアナログ音をデジタル変換して機械に取り込み、数百、数千分の一秒単位で編集し、そのデータをシーケンサーと呼ばれる音楽用コンピューターで演奏=プログラムしていることなど知る由もなかった。ましてや十数年後に、インターネットという情報通信技術が登場し、音楽環境を、いや世界そのものを激変させていることなど夢にも思っていなかった。

 

8月5日~7日

小説家と2人、東京から飛行機と電車を乗り継いで5時間の地方都市へ。渓谷の脇の画家のアトリエを訪ねる。ぎらぎらの日差しで、広大なアトリエの室温は48度だった。そこで僕は生まれて初めて、一個の芸術作品の制作開始から完成までを目の当たりにした。画家の手が動き始めてから30秒で、既に「ああ、これは彼の創造だ」としか思えない作品が立ち上がっていた。だが、その作品の上には絵具から紙切れまでの雑多な素材が次々に張り込まれ、驚くべきことに3分後には最初の痕跡は一切なく、まったく別の作品が誕生していた。その3分後、さらに次の3分後……作品平面は一瞬も留まることなく変貌し続け、不意に画家の手がとまった。制作が終わったのだ。完成作品の下には、それぞれに魅力的な数十、数百の作品が埋まっていた。それらの膨大な数の「作品」は、画家と小説家と編集者の3人の目に映っただけで、今この世界には存在しない。創造にまつわるこの事態を小説家はどう捉えただろうか。言葉と想像力だけを使って、どう『新潮』誌面で表現してくれるだろうか。

 

画家のアトリエから近い渓谷に、落差数メートルの滝があった。何人かの高校生が順番に滝の上から飛び込んでいた。

8月8日~10日

前夜に帰京して、たまった仕事をこなしたら夜明け前。電車とタクシーを乗り継いで6時間の地方都市へ。現地で合流した同僚と、仕事本番が始まるまでの短い間にドライヴに出かけた。右へ左へと曲がる山間道路を登り、カーヴを越えた瞬間のことだ。遠くの山腹から流れ落ちる滝が目に飛び込んできた。車を停めて徒歩10分。間近に見る滝は、僕にとってとんでもないインスタレーション作品であり音響作品に思えた。地球表面の引っかき傷にすぎない地形の産物が、数千年前から既にそこにあり、現代の芸術の9割9分を打ち負かしているような気がした。

 

8月9日撮影。千年以上前から日本人はこの滝を信仰し続けている。落差133メートル。

8月11日

朝、ひさしぶりに自宅のパソコンを立ち上げる。高校生の僕は、そしてその「数年後の自分」は、ノートパソコンと呼ばれる薄っぺらな機械で、音楽の作曲・演奏・録音・再生・配信までが可能になっていることを知らない。そして、そんな「夢のテクノロジー」を所有しているのに、21世紀の自分はもはや音楽制作を放棄していることも知らない。まして、2008年のとても暑い8月11日、Googleの新サービス「ストリートビュー」に驚愕し、知らないうちに撮影されていた映像の中に、三崎港の路地にある我が家の入り口と隣家の老人が写っていることを知る由もない。

寄稿家プロフィール

やの・ゆたか/1965年岡山県生まれ、文芸誌『新潮』編集長。89年、新潮社に入社し、雑誌『03 TOKYO Calling』創刊編集部に所属。以後、書籍編集者として文芸書、思想書、美術書等を担当し、2003年から現職。趣味は年間百泊する三浦半島三崎港での地魚賞味・調理。音楽・美術鑑賞。