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  • 『新潮』編集長
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『新潮』編集長の東京編集長日記

第3回:「読書端末」に必要なもの
矢野優
Date: January 15, 2008

2007年、もっとも衝撃を受けた「本」はニンテンドーDSかもしれない。だが、任天堂の開発者はどこまで意識していただろうか――DSを90度回転させるだけで、両面スクリーンが文庫サイズの「見開き」になることを。

昨夏、『一度は読んでおきたい日本文学100選』の発売と同時にDS本体を購入し、まず漱石の『行人』を読んでみた。左手親指を「見開き」の中央下部に添え、残りの指でDSの背面を支える。本とまったく同じアクションだ。違うのは右手が不要なことで、左手親指を動かせばボタンで頁を前後できる。だが、私が一番驚いたのは、『行人』にどっぷり浸っている間、<今DSで読んでいる>ということを完全に忘れているという事実だった。書物を夢中で読んでいるとき、<今、製本された紙の束を読んでいる>などとは意識しないように。読書用端末に本当に必要なのはただそれだけだったのではないか。

昨年11月、Amazonが読書用端末Kindleを米国で発売したことがニュースになったが、もちろん以前から国産の端末はいくつかある。しかし全然普及していない。だが気づいたら、既に世界中にある5千万台のDSが読書端末だった! その後、『DS文学全集』(現在TVCFが放送されている)では、DSのWi-Fi無線機能を使って作品をダウンロードできるようにもなった。

iPod/iTunesは確かに新たな音楽聴取環境を生んだ。そのようなことが読書端末に起きるのだろうか。港の家ではiPodをWestern Electric社の真空管アンプ内臓小型スピーカーで再生している。1950年代の製品。

読書端末としてのDSは<上出来>だと思う。欠点をあげることは容易だが、肝心な<存在の透明化>さえ実現されたなら、あとは誰かの技術が誰かの要望を叶えるだろう。DSが読書端末の標準機になるかどうかは不明だが、初めて読むプルーストがメモリーカードであるような<未来>が<今>になってしまった。書物のiPod化? もちろん私たちが紙の書物への愛着を失うことはないだろう。実際、私の手元には繰り返し読み、背が割れて表紙がちぎれてしまった本がある。書物としては崩壊したがゆえに、私はこれを手放すことはないだろう。だが今は、液晶画面に書物の魂が宿りうる可能性に驚いていたい。

以下の日記期間も私はDSを持ち歩き、寝る前には布団の中で日本近代文学の遺産を楽しんだ。バックライトなので真っ暗な寝室でも読めるのだ。ちなみにKindleはバックライト形式ではない。

 

12月5日(水)

珍しく午前9時出社。翻訳家2人の訳文チェック作業。その超高度な応酬に自信を喪失し、泣きながら神楽坂を狂走する駆け出し翻訳家……という脳内妄想。この日に見本が届いた新年号(CD付属)を持って京都へ。新幹線車内でしみじみ見本を眺め、撫でさすり、インクの匂いをかいだ。夜、お世話になった作家と高台寺和久傳。間人蟹から牛丼まで、どの料理も美味しかった。ホテルに戻り、DSで葛西善蔵『子をつれて』を読みつつ就寝。

 

12月6日(木)

京都から渋谷に直行し、若手作家と会合。1年前、信頼する評論家から「この人の詩、読んだ? ぜったい小説書けるよ。いつでも紹介するよ」とわざわざ連絡をいただいたのに、ぼやぼやしていたら編集者の行列が出来ていた。夜、ギャラリー小柳で杉本博司『漏光』展。新年号から連載「現(うつつ)な像」を始めていただいた杉本氏に見本をお渡しする。打ち上げで、アート三昧ブログを愛読していたブルータス編集部の鈴木氏と歓談。

 

12月7日(金)

昼、音楽家(兼・音楽批評家)と創作の相談。夜、初台でヴァレリー・アファナシエフのピアノ公演。ずいぶん前、ある縁で彼の小説草稿が手元に届いたことがあったが、残念ながら翻訳出版する実力も勇気もなかった。

 

今月の名魚はヤガラ。タツノオトシゴと同じトゲウオ目所属。三崎港に水揚げされる地魚のなかでも最もおいしい魚のひとつ。

12月8日(土)

午後、会社で高橋源一郎氏、田中和生氏、東浩紀氏による鼎談収録。依頼時の主題は<小説と評論の分断>だったが、刺激的な議論を聞くうち、これはもっと大きな、文学の<環境問題>だと思い、2号連続の掲載を決定(第1部は最新2月号に収録)。夜、三崎港の家へ。記念すべき本年の三崎港百泊目。他の誰にとっても無意味だが、自分にとっての偉業(!)を祝うべく、本来なら地魚鮮魚店「まるいち」で巨大アワビを大人食いする予定だったが、到着は深夜。原稿。DS。就寝。

寄稿家プロフィール

やの・ゆたか/1965年岡山県生まれ、文芸誌『新潮』編集長。89年、新潮社に入社し、雑誌『03 TOKYO Calling』創刊編集部に所属。以後、書籍編集者として文芸書、思想書、美術書等を担当し、2003年から現職。趣味は年間百泊する三浦半島三崎港での地魚賞味・調理。音楽・美術鑑賞。