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004:特別編『HARAJUKU PERFORMANCE + 2010』クロスレビュー
池田剛介+大山エンリコイサム+友川綾子+森田理紗
Date: March 04, 2011

イベント概要

HARAJUKU PERFORMANCE + 2010

日程:2010年12月22日〜23日(本レビューは22日公演が対象)

会場:ラフォーレミュージアム原宿

 

Open Reel Ensemble × Braun Tube Project | REALTOKYO
Open Reel Ensemble × Braun Tube Project

1. 「パフォーマンス」の現在

池田剛介

 

パフォーマンス、その言葉が示す表現領域はとても広い。ダンスや演劇のみならず、バンドやDJによるライブ、さらには大道芸やデモ行為なども、ある種のパフォーマンスとして含みうるだろう。要は身体を通じた表現行為であれば何でもあり、というわけだ。ラフォーレミュージアム原宿で開催された『HARAJUKU PERFORMANCE + 2010』には、そうした多義的な言葉から、さらにはみ出る形で「+」の記号が加えられている。2日間にわたって開催されたプログラムでは、現代音楽やポップミュージック、クラブカルチャーやアートなど、様々なアーティストたちによるジャンルを超えた競演が繰り広げられた。

 

和田永率いるOpen Reel Ensemble × Braun Tube Jazz Projectは、オープンリール式テープレコーダーの回転に直接手を加えながらの合奏や、今や目にする機会の減ったブラウン管のテレビモニターをドラムのように叩くことで音を発生させるライブを展開。真鍋大度と石橋素によるユニットは、音楽とシンクロさせながら口の中のLEDで歯を鮮やかに点滅させたり、顔に貼付けた電極で表情を強制的に動かせたりする、マッド・サイエンティストめいた実験を披露した。山川冬樹によるステージでは、機械的な声を発しながらステージ上をぎこちなく動き回る人工呼吸器との奇妙な「共演」が行われる。電子聴診器を通じて自身の心臓の鼓動を会場に響かせながら、山川独特のホーメイの声色を交えつつ「父ちゃんのためならエンヤコラ」と「ヨイトマケの唄」を歌い、その冗談とも本気ともつかないアクトで会場に緊張感をもたらした。音楽やファッションの分野で長いキャリアを持つ野宮真貴は70年代テイストのテクノポップを展開し、エレクトロニカを軸に独自の展開を行うAOKI Takamasaは簡素な音の集合から複雑なグルーブを練り上げた。クラブシーンを中心に活躍するブレイクビーツ・ユニットのHIFANAはサンプラーを巧みに用いた演奏で会場を沸かせ、1日目の夜を締めくくった。

 

今日パフォーマンスと呼ばれるジャンルの基礎を築いたローリー・アンダーソンは、70年代を通じてテレビやビデオといった当時最先端であったテクノロジーを吸収しながら、80年代にはポップミュージック・シーンとも横断する形で活動を展開した。1984年に赤坂のラフォーレミュージアムで開催された彼女の初来日パフォーマンスは、アート界のみならず、広く当時のカルチャー・シーンに大きなインパクトをもたらしたという。四半世紀を隔てた今、同じくラフォーレを会場とした『HARAJUKU PERFORMANCE + 2010』もまた、新旧のテクノロジーと身体とを交錯させつつクロスジャンルで展開された。その意味で、極めて「正統的」にパフォーマンスの系譜を引き継ぐものであったとすら言えるだろう。であるならば、そうした枠組みからもさらに逃れ出るような「+」の何かが、個々のアーティストの実践を通じて現れることを期待したい。

 

HIFANA × Daito MANABE + Motoi ISHIBASHI | REALTOKYO
HIFANA × Daito MANABE + Motoi ISHIBASHI

2. 和太鼓-テレビ/奇妙な身体——Open Reel Ensembleについて

大山エンリコイサム

 

『HARAJUKU PERFORMANCE + 2010』のトップバッターは、和田永が率いるOpen Reel Ensemble。薄暗い会場のなか、音楽が鳴りはじめると、いくつかの砂嵐がふいに現れる。それがステージに並べられたテレビの画面だと気づくのに、そんなに時間はかからないだろう。和田がゆっくりと現れて、砂嵐の前へと進む。

 

もちろん、デジタルのテレビに砂嵐は映らないのだから、それはブラウン管のテレビだ。ここ数年で、急速に過去のものになりつつあるブラウン管テレビ。テレビとしての役割を終えた瞬間、それは、やたらと重く、でかく、ある量塊感を帯びはじめたように思う。それがテレビであった時、僕たちは視覚を通じ、画面としてそれを認識していたが、今や、そのオブジェクトがある場所を占めているという空間感覚、とりわけ、それに対する自らの身体感覚をもって向き合わざるをえない。この身体感覚は、何か奇妙だ。ブラウン管テレビには、人間がひとりで持てなくはないくらいのきわどい重量感がある。手前部分はかなり重く、後部は変に軽い。身体がぎりぎりのところでそれを抱えこもうとする時、不自然にねじられ、よくわからない相手と相撲でもとっているような、どこか滑稽で、にも関わらず骨が折れる感覚に出会う。ライブが始まり、和田が砂嵐を手のひらでたたき始めた時、僕はふと、その奇妙な身体感覚のことを思いだした。

 

急いでつけ加えておくと、ライブのあいだ和田は実際にテレビを持ちあげ運んだわけではないし、オープンリール式のテープレコーダーをはじめ他にもさまざまなものを用いて演奏した。だから、あの奇妙な身体感覚は、ライブ全体の通奏底音としてあったとは言い難い。にも関わらず、僕がそれを興味深いと思うのには、もうひとつの理由がある。それは、和田がテレビをまるで和太鼓のように叩いていたということだ。腰くらいの高さに、ななめ上を向いた画面がならび、後側から手を伸ばした和田が「抱えこむように」叩く。さらにその後方には、やや高めの位置に正面を向いたテレビが並び、そこでは手のひらを顔の高さくらいにあげて、右に左にと和田はせわしく叩きつづける(その時テレビは、ある独特の重さを感じさせながら前後にゆれる)。とはいえ、和田は、熟練した和太鼓奏者のようにテレビを演奏しこなしていたというわけではない。むしろ、演奏し損ねていたといってもよい、おぼつかなさがあった。そこに、あの奇妙な感覚、どこか滑稽ですらあるようなあの身体が、立ち上がる。例えば、和太鼓奏者である林英哲の演奏は、圧倒的な技術と迫力で、通常の和太鼓という楽器の域をはるかに超えた体験をつくりだす。林は一切の無駄を削ぎ落とし、太鼓を打つという行為のためだけの機械であるかのように、自らの身体を律し、使いこなす。そのことによって、和太鼓という楽器の可能性を新たな次元に高めているといえるだろう。他方で、和田の試みは、正確に林の逆をいっているように思う。和田は、楽器としての和太鼓-ブラウン管テレビを演奏しようとして、自らの身体を見事に使い損ねる。そこには、林英哲の身体のような洗練も、和太鼓という楽器の伝統のようなものも見当たらない。そうではなく、そこにあるのは、ブラウン管テレビと身体のあの奇妙な関係だ。

 

ようするに和田は、視覚的なメディアとして機能不全に陥ったテレビを、和太鼓のように演奏しようとしてみせることで、まずはそれを、身体-楽器という関連のなかで意味づけ直す。だが同時に、和太鼓-テレビに対し、演奏者としてその身体を使い損ねることで——つまり、あの奇妙な身体感覚を図らずも立ち上げてしまうことで——それを楽器からブラウン管テレビというオブジェクトへ、もはや映像が剥奪された量塊性のほうへと斜めに引き戻してしまうのだ。そのようにして、彼自身の身体は「和太鼓-テレビ/演奏身体」と、「楽器-オブジェクト/奇妙な身体」という二重の運動の狭間で宙づりにされてしまう。その身体は、テレビを抱えるようにそれを奏で、和太鼓を奏でるようにそれを抱えこむという妙なねじれを孕んでいる。

 

だが、画面に映った砂嵐を忘れるべきではないだろう。というのも、砂嵐は身体、楽器、オブジェクトをめぐる重層的な共犯関係に、もうひとつ、最後の水準をつけ加えるからだ。それは、対象がいまだかろうじてテレビであることを担保する、映像の水準である。何も映しださない、映像ならぬ映像。砂嵐はしかし、画面に雪が降ったように見えることからスノー・ノイズ(Snow Noise)とも呼ばれるように、何も映さないがために人はそこに何かを読み取りたくなってしまう。乾いた砂であると同時に雪の粉でもあることで、それ自体が多方向に広がっていくその想像力はまた、「映像/ではないもの」として常にさらに引き裂かれた状態にある。そして、それはどこかであの、宙づりにされた奇妙な身体感覚へと通じてはないだろうか。実際、その「映像/ではないもの」は、恐らくもっとも直接的な仕方で和田の身体へと働きかけていた。本人がパフォーマンス中に明かしたように、砂嵐の映像を叩くことで音を奏でるには、画面から出される有害な電磁波に触れなければならない。その電磁波が、和田の生命のある部分を削り取ることで、和太鼓-テレビは楽器となる。従って、あの奇妙な身体には、最後に生物学的な軸が挿入されるといってよいだろう。身体が身体であるための最終審級、「身体/ではないもの」を分かつ、生命という次元を。

 

『HARAJUKU PERFORMANCE + 2010』でのOpen Reel Ensembleのパフォーマンスは、これら複数の問題系を交錯させつつ、演奏する身体を幾重にもずらしていくようなものであったと考えたい。それは恐らく、音楽、メディア・アート、パフォーマンスなどとわかりやすくはカテゴライズできない、彼らの活動形態そのものと共振するものでもあるだろう。色々なメディアをマルチに横断するのではなく、あるひとつの表現の重層性のなかで、内在的にその行為をかき乱していくこと。そのような活動のあり方に、今後も期待したい。

 

野宮真貴 | REALTOKYO
野宮真貴

3. ジャンル横断の可能性——『HARAJUKU PERFORMANCE + 2010』と山川冬樹

友川綾子

 

『HARAJUKU PERFORMANCE + 2010』の初日に登場した山川冬樹は、ジャンルを跨いで活動するアーティストである。ホーメイの歌い手として活動をスタートさせ、パフォーマンスやノイズ音楽、現代アートシーンでも活躍している。本公演では、2010年開催の『あいちトリエンナーレ』で披露された新作パフォーマンス「Pneumonia」の一部を再演したようだ。

 

パフォーマンスは、山川が医療用トレーに豚の臓器を置き、そこに何らかの装置を取り付けることから始まった。臓器は、機械のような音声でたどたどしく、「父さんのためならエンヤコラ。母さんのためならエンヤコラ。私の名前はピューリタンベネット。人間の呼吸を助ける機械です」と自己紹介をする。すると、山川はギターを手に持ち「ヨイトマケの歌」を、がなるように歌いだす。足を踏み鳴らしながら鬼気迫る様子でピューリタンベネットに迫り、そのいらだつような姿から、人の血肉が通わない機械に、魂を入れ込もうとしているかのように思えた。

 

「ヨイトマケの歌」は、美輪明宏が作詞作曲した、日雇い労働者を題材にした歌である。歌詞に登場する労働者達は、戦後日本の復興を支えた底力だ。日本の原風景というか、いまを生きる私たちにとっても、決して忘れてはならない魂が、言霊として立ち現れているように感じる。日本人に生まれ育ち、「ヨイトマケの歌」を聴けば、懐かしさと当時に先達への感謝の想いが自然とこみ上げてくる。それは、私たちの臓腑に染み付いた、土着の民族性のようなものではないのだろうか。

 

臓器移植をした人の中には、ドナーの食べ物の趣味や日常生活の癖を受け継ぐ人がいるようだ。それが本当であれば、人は脳だけで全てを意思決定しているのではなく、臓器もその人の人格に影響を及ぼしている。医療用人工心肺は、人間の延命や生活の向上のために便利である一方で、その人の人格を、肉体のそのパーツに関わる部分だけ、人工物に置き換えてしまう。出自からくる土着の民族性が臓腑に宿っているのだとすれば、それが人工物に置き換えられてしまうということだ。

 

作品に医療器具を持ち込んで、自らの表現手法とした作家に、ダミアン・ハーストがいる。ダミアンは、人間が延命あるいは「よりよく生きる」ために存在する医療の用具を用い、死を顕在化するかのような、動物の死体を用いたシリーズを発表している。ここでの医療機器は、感情を介さない冷酷で無慈悲、不干渉なものである。そして、ダミアンがテーマとするのは、「生」と「死」である。一方で、山川が提示するのは「生」と「生」だといっていい。「ありのままの生」と、「人工的な生」との対比である。医療品を冷酷で不干渉なものとした上で、「人工的な生」を「ありのままの生」に近づけようとする作為がある。それは、現在の医療が抱えている命題そのものでもある。

 

アート・音楽・パフォーマンスなどのジャンルを横断して表現活動を展開するアーティストにとって、『HARAJUKU PERFORMANCE + 2010』 のステージは、どれだけ刺激に満ちていることだろう。クロスジャンルを前提として提示される舞台にこそふさわしい表現があるのであれば、こうした場がさらに広がりをみせて行く事を期待してならない。

 

AOKI takamasa | REALTOKYO
AOKI takamasa

4. テクノロジーと身体の関係性——山川冬樹のパフォーマンス

森田理紗

 

臓器移植、クローン技術、遺伝子操作、人工授精など日々進化するテクノロジーは我々の身体にまで浸透している。この医療テクノロジーの発展によって、生命倫理に関する疑問が投げかけられると同時に、ある側面で我々は、多くの自由を獲得してきた。しかしながら、こうした議論において、人の身体性と真正面から向き合うことが避けられがちなのは、我々が説明のできない不安な状況に陥れられるからかもしれない。アートは、こうした不安を包含する形で、我々を問題と対峙させる役割を担えるのではないだろうか。森美術館『医学と芸術展』にステラークが出展した、自らの左腕に耳を人工的に形成した「腕にある耳」は、この点を表しているようだ。本フェスティバルにおいては、山川冬樹のパフォーマンスが、医療テクノロジーと身体のこうした関係性を、より多義的な文脈において表出させた卓越した作品だった。

 

パフォーマンスは、本物の豚の肺がピューリタンベネットという人工呼吸器に取り付けられ、「呼吸」するところから始まる。人工呼吸器は、ロボットの声で、「私を取り外すと刑法199条により罰せられる」などと語り始める。肺も機械もまるで生きているかのようだ。人工呼吸器は、我々の脳の機能が回復不可能なところまで低下した場合であっても、身体を生かすことができる。このいわゆる脳死状態にあるとき、昨年改正された「臓器移植法」によれば、本人の意思が不明な場合であっても、親族が同意すれば、臓器を摘出することが可能になった。自分の身体について第三者に決定権があるということは、脳死状態の臓器は、単なるモノに近づいてきたということかもしれない。とすると、人間の肺は、山川が提示した豚の肺と何が異なるのだろうか。この不気味なパフォーマンスは、機械、動物、人の間の身体レベルでの関係性を崩壊させ、我々を不安定な場所へと誘う。

 

さらに、この「呼吸」が続けられる中、山川は、トゥバ共和国に伝わるホーメイという歌唱法を披露し、その後、美輪明宏の60年代のヒット曲「ヨイトマケの唄」を力強く歌う。体の底から這い出てくる唸り声のような低い声は、慣れない耳に違和感を感じさせるほどだ。「ヨイトマケ」とは、かつて建設現場で地固めをするときに、大勢で重量のある槌を滑車で上下させる際の掛け声「よいっと巻け」に由来するもので、この歌は彼ら労働者のために作られた。 最先端医療テクノロジーを用いる一方で、鍛錬された身体によるアナログ的表現を行う点は、マシュー・バーニーのパフォーマンスを想起させる。バーニー、山川両者の表現において共通して挙げられるのは、表現の背後に存在する知性と身体の鍛錬である。すなわち、鍛えられたバーニーの筋肉、山川の発音器官からは、思うままに身体を制御しているようにも見える。しかし、それは同時に、いまや機械というテクノロジーに取って代わられた労働者の身体を、亡霊のように浮かび上がらせ、テクノロジーと身体の入り組んだ関係性を表出する。

 

山川のパフォーマンスは、テクノロジーと、ロボットや動物そして人の身体性の関係性を多義的に変容させることで、テクノロジーと身体の関係性について新たな視点で再考させるものであった。

 

AOKI takamasa | REALTOKYO
山川冬樹

寄稿家プロフィール

いけだ・こうすけ/1980年福岡県生まれ。美術作家。主な個展に『Plastic Flux』(Lower Akihabara)、『GoldfishPicture』(Voice Gallery)など。制作活動と平行して文章の執筆やシンポジウムへの参加などを行う。趣味は口笛。kosukeikeda.com

寄稿家プロフィール

おおやま・えんりこいさむ/1983年、東京生まれ。美術家。ペインティングやインスタレーション、壁画などの作品を制作、発表している。主な展示に「FFIGURATI」(con tempo, 2009)、「memento vivere / memento phantasma」(旧在日フランス大使館, 2009)、「InsideOut of Contexts」(ZAIM gallery, 2010)、「あいちトリエンナーレ2010」(名古屋市長者町, 2010)など。www.enricoletter.net

寄稿家プロフィール

ともかわ・あやこ/1979年生まれ。Bunkamura Galleryと銀座の画廊・ギャラリーヤマネで修行したのち、3331 Arts Chiyodaの準備段階からオープンまで広報を勤める。現在はフリーのライターとしてJapan Design Netなどに寄稿している。アートの現場でやれることなら、なんでもやる。趣味は料理と旅行で、カフェというよりも喫茶店が好き。

寄稿家プロフィール

もりた・りさ/1986年、いばら「き」県笠間市生まれ。夢想家。大学時代は模擬裁判遠征(旅行)で世界を飛び回る。2008年、卒業を機に模擬からの脱出を試み、現在リアルなレビューを勉強中。