
ニューヨーク在住のアーティスト、大山エンリコイサムの初単著であり、グラフィティ文化に関して日本語で書かれた最初の包括的な批評書である『アゲインスト・リテラシー ─ グラフィティ文化論』(LIXIL出版)の刊行記念イベントが、元ジャパン・ソサエティー・ギャラリー・ディレクターの手塚美和子氏をゲストに迎え、昨年6月にニューヨークで行なわれた。
当日は英語で、質疑応答まで含む3時間のディスカッションとなったが、ここでは和訳したダイジェスト版を公開する。

手塚:インデペンデントキュレーターの手塚美和子です。1945年以降の日本のアートに関心を持つアーティストや研究者のフォーラムであるオンライングループPoNJA-GenKonの創立メンバーでもあります。本日は大山エンリコイサムさんからお話を伺い、アーティストであり、またグラフィティとストリートアートという領域のすぐそばに身を置いて観察し続ける彼の知識から学びたいと思います。
まずエンリコさん自身のことや、具体的にどのようにしてグラフィティに関わってきたか、皆さんも知りたいと思うので簡単に話していただけますか。
グラフィティ文化との出会い
大山:初めてグラフィティ文化に出会ったのは2000年頃の東京で、高校生でした。当時、ニューヨークのストリートカルチャーが流行っていたんです。ただどういうわけか、僕はストリートでグラフィティをかくのではなく、大学生になった頃からライブペインティングの活動をクラブで始めました。それはグラフィティとはやや違うものでした。
その頃ライブペインティングは新しいもので、コミュニティもとても小さかった。コミュニティというより、ほかのどのサブカルチャーのグループにも帰属できなかった少数の個人アーティストの間のゆるやかなネットワークという感じでしたね。2007年に東京芸大の大学院に進学したのですが、アート関係者はグラフィティについて80年代のジャン=ミシェル・バスキアやキース・ヘリングくらいしか知らなかった。そこで、自分の文化的バックグラウンドを説明する必要がありました。

手塚:グラフィティ文化に出会ったのは、主に東京においてでしたか。
大山:グラフィティはグローバルな文化ですが、僕は東京で経験しました。東京には独自のスタイルと雰囲気がありましたね。
手塚:おそらく80年代以降、東京がよりグローバル化し、日本の多文化的な中心になったからかもしれませんね。
大山:ヘリングとバスキアが登場したのは、グラフィティ文化がニューヨークの重要なサブカルチャーのひとつとして成熟してからしばらくあとの80年代のことです。これがヘリングの作品です。

手塚:このヘリングの有名なスタイルは80年代や90年代初頭には日本でもすでに見られるものでしたよね。
大山:そうですね。ヘリングは1983年に東京のギャルリー・ワタリで個展をしています。草月アートセンターも、グラフィティに影響された当時のもうひとりのアーティスト、ケニー・シャーフを含む『アート・イン・アクション』展というグループ展を1985年に開催しているんです。
手塚:ニューヨークやアメリカのアートシーンにおいてはそれほど早い感じはしませんが、日本の草月アートセンターでそういった展覧会をやったのは早く感じますね。
大山:そうなんです。草月アートセンターの創設者の長女の……
手塚:勅使河原季里さん。
大山:彼女は80年代にニューヨークにいたのでこうしたアーティストたちを知っていて、東京に連れてきたみたいです。

手塚:いつでも異なる文化の架け橋になる特定の人がいることは面白いです。ある意味ではエンリコさんのやっていることも、ニューヨークと東京で起こっていたこれらのシーンの架け橋ですね。『アゲインスト・リテラシー』の執筆準備の際は、どうリサーチしたんですか。
大山:基本調査としては、グラフィティ文化に関する主に欧米の文献に当たりました。そのほとんどは社会学の視点から書かれたものです。僕の役目は、欧米の社会学者がすでにやったことを再生産するのではなく、東京出身のアーティストとして独自の視点を採用することだと考えました。
第1章では、8名の個別のストリートアーティストを論じています。第2章では、ニューヨークのグラフィティ文化の歴史を要約しつつ、アメリカのほかの落書き現象を20世紀初頭までさかのぼりながら、物語として描いています。第3章では、日本の現代サブカルチャーや社会状況、例えばオタク文化や東日本大震災について、グラフィティ文化と関連させながら考察しています。最終章では、グラフィティ文化と60年代のニューヨークにおける美術批評を関連づけて論じています。
また、個人的にニューヨークのグラフィティライターを数名知っています。その人たちと直接話すことで、歴史についてより学ぶことができました。
手塚:エンリコさんがニューヨークのアーティストたちと築いた、そうした個人的かつ親密な出会いや関係性は興味深いですね。いまこの場で特別にこの人について話したいというアーティストはいますか。
大山:70年代初頭のニューヨークの「ヒッツ」(hits。タグのこと)の写真がふたつあります。左がCOCO144、右がPHASE2です。ふたりともニューヨークのグラフィティ文化における先駆者ですね。


「からっぽの記号」からスタイル化された「名前」へ
手塚:エンリコさんは本の中で、スタイルのオリジナリティと独創性、そしてアーティストがどのようにして独自にそれを確立するか書いています。そのスタイルについて、言葉で説明してみることはできますか。
大山:70年代初頭にグラフィティ文化が最初に発展したとき、それほど多くのスタイルは確立されていなかったんです。ジャン・ボードリヤールはグラフィティのことを「からっぽの記号 empty sign」と呼んでいます。グラフィティは読み手に向けた意味やメッセージを持つものではなく「名前」をかく行為であり、意味ではなく形と音に関わるものだからです。「名前」をかくグラフィティ以前は、公衆にメッセージを伝える政治的プロパガンダの落書きがありました。ボードリヤールはこの対照性に気づいており、その上でグラフィティを「からっぽの記号」と形容した。ただ、70年代を通してグラフィティライターたちは、ユニークでスタイル性のある名前と文字の視覚言語を発展させました。それはより大きく、ファンキーで、装飾的になったんですね。
手塚:タギングの本質は、そこにいたというマーキングですね。
大山:ええ。それは、スタイル化された「名前」をかくという行為を通して彼らのアルターエゴを表現する手段になり、アルターエゴに満たされていたためにそれはもう「からっぽの記号」ではなくなったと考えています。メッセージ性を基調にした政治的落書きから「からっぽの記号」、そしてスタイル化された「名前」のグラフィティへという移行は、この文化を理解する上でとても重要です。(スクリーンのイメージを指しながら)COCO144とPHASE2のこれらの「ヒッツ」は、その移行の過渡期につくられました。これらはまだ「からっぽの記号」ですが、スタイル性もある程度認められます。
手塚:最初の移行においては、多くの場合に政治的メッセージをともなった落書きだった。60年代後半から70年代初頭は、世界中でヴェトナム戦争に反対する多くの学生のプロテストが起こっていた時期で、それは落書きの発展に反映されていたわけですね。それがグラフィティになると、そうした詳細な政治的メッセージは失われた。それは署名、名前になり、名前そのものがサインだった。ボードリヤールはそのマーキング行為のからっぽさを批判したと。
大山:グラフィティはからっぽであることが強みであり、そのようにして権力に抵抗したとボードリヤールは述べています。同時に、彼のバックグラウンドのひとつにマルクス主義がある。グラフィティを論じる際、彼は明らかに、過去の労働階級の人たちによる、イデオロギーに満たされたほかの社会運動の歴史的文脈についても考えています。ボードリヤールがグラフィティを「からっぽの記号」と呼ぶとき、過去のそうした文脈がグラフィティライターたちによって忘れられていることを示唆しているようで、ややアイロニカルに聞こえますね。
手塚:それはアメリカ独自の現象だったのでしょうか。それともヨーロッパでも起こっていましたか。たしか、エンリコさんはイタリアでもグラフィティに出会ったと言っていた気がします。
大山:僕は16歳から17歳までイタリアに住んだことがあり、そのとき現地でもグラフィティを見ました。その前からグラフィティについては知っていましたが、イタリアのグラフィティはスタイル的に東京のそれとやや違ってましたね。
手塚:60年代後半から70年代初頭にかけての日本でのグラフィティの存在についてはなにか知っていますか。
大山:それほど知りません。全共闘という学生運動が日本でもあったので、その現場に政治的な落書きは多少あったと推測しますが、ニューヨークのような「名前」をかくものではなかったと思う。
手塚:そうやってグラフィティ文化の発展の背後にある歴史を発掘するとき、その文脈に対して自分をどう位置づけるか意識的に考えていますか。それは自己分析なのですか。
大山:自己分析は難しいですが、でもそうですね、そうした系譜の中で自分の活動を文脈化するという意識はあります。それについては本の最後のパートで議論していて、そこはほとんど僕のアーティストステートメントなんです。本書で論じた歴史的な文脈のいくつかは、そのステートメント部分に流れこんでいます。やはりアーティストなので、考えていることは結局自分の制作に結びついてくるんですね。
手塚:この本を書いたあと、エンリコさんにとってテクストとはなにを意味するのかな。これは……アーティストとしてのあなたのアイデンティティを俯瞰し、位置づけるための手段でしょうか。
大山:この本でやろうとしたことのひとつは、自分を位置づけることだと言ってよいと思います。ふつう、アーティスト自身ではなく、批評家や歴史家がやることですね。僕は幸い、自分自身の権利においてそうする機会を得られた。
手塚:エンリコさんが活動を開始したときに、日本の美術批評家の間でグラフィティアートとその歴史に対する知識が欠けていたことの結果でしょうね。私は、本の中で議論がかなり過去にまで歴史を遡っていることに関心を抱きました。個人の手による落書きについて、19世紀末頃のケースを論じるところから始めていますね。こうした事例とグラフィティアートの関連を見出していますが、それはエンリコさん自身の視点ですか。それとも、一般的にグラフィティの起源はそう論じられているのですか。
大山:19世紀後半から20世紀初頭にかけての落書き現象への歴史的参照は、ほかの研究者によっても断片的に議論されています。僕の仕事にユニークな点があったとすれば、より広い文化史的な物語を描くために、そうした先行事例を組み合わせて論じたことだと思う。あと、多くの本では社会学や犯罪学、カルチュラルスタディーズなど既成の学問分野をグラフィティ分析に適用しがちです。僕はそれを回避して、グラフィティそのものの権利において歴史を立ち上げたかった。それが、ほかの落書き現象を多く参照した理由です。
グラフィティとライブペインティングの共通点と相違点
手塚:先ほどの作家ふたりのイメージに戻りましょうか。
大山:右がPHASE2、左は本の表紙に作品が使用されているALE ONEです。COCO144も見せます。

IRT line, Dyre Avenue Station
The Bronx, New York City, 1974 / Photo by ALE ONE
手塚:これらの作家とは実際に友人なのですか。
大山:COCO144とALE ONEとは友人です。PHASE2とは面識がありませんが、将来会いたいと思っています。彼はとても重要です。ここで見せている作家はみな、グラフィティ文化のキーとなる先駆者たちです。PHASE2とCOCO144は、70年代初頭にギャラリーのコンテクストでグラフィティ作品を展示してたりもします。1972年に「ユナイテッド・グラフィティ・アーティスツ」というグループを結成し、1976年頃まで、ギャラリーや美術館での展示をしました。
手塚:どうやって彼らと知り合ったのですか。
大山:COCO144には知り合いを通して出会いました。最初は彼について知りませんでした。というのも、70年代初頭のグラフィティはニューヨークでもそれほど知られていませんから。でも話をする内に、彼がとても重要な存在だと気がついたんです。ALE ONEも、ニューヨークに来てから知りました。本の表紙に使用する写真の依頼をするために、ネット経由で彼に連絡したのが最初です。
手塚:70年代から活動しているこれらの作家たちに会ったわけですが、彼らがより長期的な、ある種の美術史的なコンテクストとの関連においてどのように自分たちの活動をどう見ているかについて、発見はありましたか。
大山:どうでしょうね。70年代初頭に活動を開始したとき、彼らのほとんどはグラフィティ文化がこれほどグローバルになるとはまったく想像しなかったと思います。いまだにそれは発展し続けていて、現代美術とも交わっている。でも、これら先駆者たちのほとんどはいまだにアートワールドから注目されておらず、おそらく見過ごされている。個人的に、基礎が築かれたこの時代についてもっと学ぶべきだと思っています。
手塚:そのような初期の歴史は、なぜエンリコさんが本を書くまで日本に翻訳されたり紹介されたりしなかったのですか。
大山:おそらく日本だけではなく、ほかの国でも同様だと思います。80年代にグラフィティ文化に関する映画や写真集が公開され、国際的に流通してほかの国に伝わるということが起こった。ニューヨーク以外の多くの若者は、この時期にグラフィティ文化に出会ったということがあります。
手塚:本の冒頭で匿名性について論じていて、それが有名性に転じると書いています。この問題ですが、ライターがその場でグラフィティをかいているところを撮ったビデオの事例を持ち出していますね。可視的なパフォーマンス、グラフィティのパフォーマティビティと、グラフィティが本来持つ匿名性の関係をどう捉えていますか。
大山:グラフィティの視覚言語は、ライター本人が不在であるがゆえに発展した部分があるんです。グラフィティ文化において「名前」をかくことは、自画像を描くことに似ている。「名前」は顔となり、物理的な身体がそこにないライターの存在を代理表象する。だからスタイルが発展したんですね。グラフィティライターは、自分の素性は匿名に留めつつ、かかれた「名前」によって有名になろうとするわけです。
対照的に、ライブペインティングではアーティストは観衆の前でパフォーマンスをするため、状況が異なります。反転した状況です。ただリスクに晒されるという感覚があるため、ライブペインティングをするときにも緊張感があります。ひとつひとつのアクションが観衆に目撃されているから、アーティストは一切ミスを犯せない。ある意味で、それは暗闇の中でグラフィティを行なうことに似た経験です。警察に見つかるかもしれないからライターたちは素早くなければならないし、音を立てるとかミスをすることを避ける必要がある。
手塚:そのふたつの間の差異は、犯罪性の有無、バンダリズムか芸術行為かというような差異だと思います。初期のパイオニアたちは、最初どのように始めたのですか。バンダリスト、あるいは犯罪者としてですか。
大山:重要ですね。グラフィティが違法行為であり、彼らがそれを知りながら構わずにグラフィティを行なったのは事実ですが、70年代初頭にそれが始まったとき、公衆がそう考えていたほどには、彼らが「犯罪的」であることに意識的だったとは思いません。というのも、せいぜい10代前半の子供たちだったからです。公共空間に自分たちの名前をかくことで、ただ素朴に自己表現をしようとしたと考えるほうが自然です。それは違法行為だったけど、違法行為自体が目的だったとは考えにくい。
実際、彼らは自分たちのしていることを「グラフィティ(落書き)」とは決して呼ばず、「ライティング(かくこと)」と呼んでたんです。そのほうが犯罪性のニュアンスは低いですね。ただ、グラフィティのコミュニティとニューヨーク市の間の摩擦が激しくなるにつれ、ライターたち自身も、自分たちのやっていることは犯罪であるという感覚をより身につけ、またその感情を内面化していった。最終的に、ある種のライターたちはグラフィティの主要なエレメントは違法であること、権威と闘うことだというふうに事後的に定義し始めたのだと思う。
手塚:では、グラフィティという用語は誰が最初に使ったのですか。
大山:70年代初頭には、ニューヨーク市といくつかの新聞はすでにグラフィティと呼んでいましたね。文化が発展するにつれて、グラフィティは社会問題か、新しいアートフォームなのかと問う二項対立が、議論のための枠組みとして形成されていった。最初に「グラフィティ戦争」という言葉を使ったのは、当時のニューヨーク市長ジョン・リンゼイだったと思います。
ストリートアートとファインアートの境界線
手塚:後続世代のグラフィティアーティストとその作品の事例をいくつか見せられますか。

Courtesy Walker Art Center, Minneapolis, MN,USA
大山:これはバリー・マッギーです。サンフランシスコ出身で、現在は世界的に知られた作家ですね。中国系とアイルランド系の混血で、印象的な顔のドローイングがもっともよく知られています。奈良美智さんと仲がよいみたいで、僕も自分の本でふたりのスタイルの共通点に関して少し議論しています。
手塚:奈良さんは私がこれを蒸し返すと嫌がるでしょうけど、彼は数年前にユニオン・スクエアで落書きをして逮捕されています。だから、彼はすべてのグラフィティが始まった地点に立ち戻っているとも言えるのですが、でもマッギーとも仲がよいのですね。奈良さんのマッギーの見方というのは、ある種の子供っぽさというか、純粋さというのではなく、幼年期の時には残酷なほどのわんぱくさのようなことかと思います。彼らはなにも恐れない。子供の純真さとグラフィティアーティストのエネルギーには似たところがありますね。
ただ、おそらくマッギーは、ストリートアーティストというよりファインアーティストであることにより自覚的ではないですか。
大山:彼が後続世代のアーティストだと思う理由はそこです。彼はアートスクールで勉強するかたわら、ストリートでのグラフィティもやっていた。彼の世代の一定のアーティストは、そういう感じでした。ヒエラルキーはなくて、ただふたつの異なるコンテクストからきわめて自然にインスピレーションを吸収して、自分たち自身のやり方でそれをミックスした。そういうことは、70年代初頭の先駆者たちの多くには起こらなかったんです。
手塚:エンリコさんもある種オーバーラップする似たような関心を持っていますけど、マッギーに親近感は感じますか。
大山:70年代初頭のグラフィティの先駆者たちと比較するなら、たぶんマッギーと僕は同じ側に立っていると思う。ただ、それはかなり巨視的で粗い見取り図ですね。現実には、僕とマッギーはかなり異なると思います。彼は僕よりも年上だし、ストリートのグラフィティとギャラリーなどの展示を両方やった。ふたつの世界のインサイダーだと思う。
僕はつねに境界線に立っている感覚があります。僕自身はグラフィティのコミュニティに本当に属したことは一度もなくて、つねに半分観察者の立場でした。これはある程度まで東京という環境に起因していて、東京でストリートのグラフィティをやるのはかなりハードルが高い。だからライターではなく、クラブで活動するライブペインターになったとも言える。だけど視覚言語という意味では、グラフィティ文化にとても影響を受けていて……だから僕のグラフィティ文化に対する関係はつねに曖昧だったんです。その曖昧さが、自分の活動を文脈化するために、自分自身の立ち位置から文章を書いていこうという動機になったと思います。マッギーはそんなこと考えたことないんじゃないかな。
手塚:東京の環境という話は面白い。というのも、エンリコさんの本の一部は都市空間に関する議論、どのようにグラフィティライターたちがそれと相互作用するか、またはそれに介入するかという議論だからです。その現場として東京をどのように観察しましたか。グラフィティライターたちが「すべてピカピカ」な東京の環境に抗議のアクションを行なえるなにかしらのスペースは、そこにあったのでしょうか。
大山:そうですね。ただ、過度にクリーンな環境に対する政治的な抵抗という類のものではなかったと思います。なにかグラフィティはクールなものだという共通の感覚があって、どちらかというとスタイルに関わるものでした。一度カルチャーの内側に入りこむと、それはとても強力でライターをコミュニティに密着させます。それは濃密で……インサイダーにパワーの感覚を与えるものですね。
ふつう、公共空間はオーソリティや公衆の管理下にあります。彼らの多くは、そこにグラフィティがあることを認識していません。ただインサイダーなら、これはあのライターのタグ、あっちは別のライターのタグ、というように気づいて読むことができる。そしてストリートに拡散したグラフィティのネットワークの心理地図を持つことで、既存の都市景観に対して、異なる視点を確保することができる。それはどういうわけか、なにかパワーを持っているような感覚をもたらします。おそらく、ほかの人が知らないことを知っていて、水面下で起こっているなにかに参加しているという感覚があるから。
制度化されたリテラシーから脱却する
手塚:エンリコさんの作品を見てみましょう。あなたの作品の特徴が、ほかではなく東京という環境から影響を受けていると感じられるかどうか、おそらく議論できそうです。

Clocktower Gallery, New York, United States / Photo © Atelier Mole
大山:これは2013年にニューヨークのクロックタワー・ギャラリーでやった壁画作品です。僕は自分のスタイルを「クイック・ターン・ストラクチャー」と呼んでいて、それはこの壁画のように、白黒を基調とした、非常に鋭角的な描線のつらなりからなるパターンです。文字ではなくて完全な抽象ですね。グラフィティ文化では「名前」をかく行為と、それがストリートで行なわれるという事実に強い結びつきがありますが、僕はストリートの活動に深入りしなかったので「名前」をかく必要は感じませんでした。どちらかというと、グラフィティの視覚構造のインパクト、それをどうやって自分の仕方で発展させるかということ、そしてそれをストリートに限定せずに、どうやって異なるメディアの間に流通させるかということにより関心があった。
だから文字の造形を外し、その視覚構造からクイック・ターンという流動性の高い描線のみを抽出して、それを反復することで、もうひとつの抽象的なビジュアルイメージに再構成しています。それがクイック・ターン・ストラクチャーです。ふつうのグラフィティはかき手のアルターエゴを表象しますが、クイック・ターン・ストラクチャーは僕の「名前」ではないので、僕の自画像ではない。代わりに、それはそれ自身の「名前」と生をもっています。僕の役割は、その生をキャンバスや壁の上で可視化させること……そのように感じています。
環境の影響で言うと、「日本性」というより「東京性」というほうがしっくりきますね。それがなんなのかうまく言えないのですが、東京的な感性が自分のスタイルに埋めこまれているとは思います。あえて言えば、それは造形におけるミニマル性やシンプルさへの傾向かもしれません。
手塚:その流線を生み出す方法は、あなたの身体と骨格の構造に密接に結びついていますね。
大山:そうです。身体の動きから生み出されます。メディエーターのような感覚です。
手塚:読むことができること、またはできないことのリテラシーについても議論していましたが、エンリコさんの作品は、文脈において読解される必要性から解放されているということでよいですか。
大山:そうです。本書で論じたことのひとつは、現代美術はしばしば鑑賞者に美術史のコンテクストを理解するリテラシーを要求するということです。それを持っていない場合、ある種のアート作品はどう見ればよいかわからないときがある。グラフィティ文化についても似たことが言えます。アウトサイダーは目の前にグラフィティがあっても気づかないし、もし気づいても、どう読めばいいのか、なぜそこにあるのかわからない。
「リテラシー」という言葉は、もともと文字の読み書き能力を指しますが、現在の私たちは、高度な文脈性を持ったコンテンツを理解する能力を指す場合にもこの言葉を使います。グラフィティ文化では、様式化されたレターの低い可読性と、サブカルチャーとしての特殊なコンテクストのために、リテラシーが二重に必要になってくるんです。これは、インサイダーとアウトサイダーでリテラシーに大きな隔たりがあることを意味します。
タイトル『アゲインスト・リテラシー』は、制度化され、文脈に偏重し、リテラシーによって駆動するようなアートの見方─それはときに鑑賞者の排除を生みます─を脱却し、感性的なリテラシーとでも呼びうるもの、文脈や知識ではなく、経験の蓄積によって養われた別のタイプのリテラシーを獲得することの大切さを議論するためにつけました。文脈的なリテラシーは批評家や歴史家と、感性的なリテラシーはアーティストと親和性が高い。
クイック・ターン・ストラクチャーは文字ではないので、鑑賞者はそれを読んだり、グラフィティの文脈を理解する必要がありません。もちろん、例えば僕の本を読んで、それについてより深く知ってもらうこともできますが、同時に、ただそれを観て、感性的に感じてもらってもよい。そこは自由にしておきたいんです。

手塚:最後にひとつ質問をします。リテラシーという概念について、そのふたつの異なる意味合いがどう相互に関連しているか説明がありました。ひとつは文脈的なリテラシー、もうひとつは経験則による「感性的なリテラシー」。たとえば「beyond(彼方に)」や似たような効果のほかの言葉ではなく、なぜ「against(対抗する)」という言葉を選んだのか、興味をそそられます。
大山:それはスーザン・ソンタグの『反解釈 Against Interpretation』という本を参照していて、僕の本の最終章でも論じています。そこでソンタグとマイケル・フリードの比較をしていて……手短に言えば、フリードのエッセイ「芸術と客体性」が文脈的リテラシーによって駆動される美術批評の傾向を代表しているとすれば、ソンタグの『反解釈』は「スタイル」という用語をキーワードにしながら感性的で経験的なアートの見方の大切さを強調してるんです。
手塚:ある意味では、私のようにその分野の知識をもたない人に対して、グラフィティアートを理解するポイントをより民主的にしているんですね。エンリコさん、今日はありがとうございました。この本から多くを学びましたし、多くの人がこの本を読んでグラフィティとストリートアートの刺激的なフィールドについて知ることを期待しています。
(※この対談は、『アゲインスト・リテラシー ─ グラフィティ文化論』刊行記念イベントとして、2015年6月27日に紀伊國屋書店ニューヨーク本店で開催されました。)
寄稿家プロフィール
おおやま・えんりこいさむ/アーティスト。1983年、東京生まれ。ニューヨーク在住。グラフィティ文化の視覚言語を翻案したモチーフ「クイック・ターン・ストラクチャー」をベースに壁画やペインティング作品を発表し、注目を集める。また、コム デ ギャルソンやシュウ ウエムラとのコラボレーション、著書『アゲインスト・リテラシー─グラフィティ文化論』(LIXIL出版)の刊行など広く活動している。http://www.enricoisamuoyama.net
寄稿家プロフィール
てづか・みわこ/日本戦後現代美術に関わる研究者、キュレーター、アーティスト等を国際的にオンラインでつなぐ「ポンジャ現懇」共同創立者兼共同ディレクター。また、故・荒川修作がNYに設立した財団Reversible Destiny Foundationのコンサルティングキュレーター。元NYアジア・ソサエティー美術館現代アジア美術キュレーター、前NYジャパン・ソサエティー・ギャラリー館長。