
この公演は、今年の2月に横浜で開催された国際舞台芸術ミーティング in 横浜(TPAM)のプログラムの、タン・フクエンがシンガポールにフォーカスしてディレクションした5演目の内の1つである。公演は自身が編集した写真と映像を大小2つのスクリーンを使って観せながら、ホー・ルイ・アンが1時間にわたって1人で話し続けるというレクチャーパフォーマンスの形式で行われた。

このレクチャーパフォーマンスという形式は現在西洋では流行しているらしいが、日本ではまだ一般的とは言えないだろう。私も今回の公演を経験して初めてその形式の可能性に気付かされた次第である。やっていることは表面的には企業のプレゼンと何も変わらないシンプルな行為である。ホーは衣装も普通だし、訓練を必要とするような特別な身振りもしない。公演の魅力は、写真・映像・テキストの面白さにユーモアとアイロニーに満ちた彼の語り口の妙が加わって生まれている。しかしこの公演は、本質的には彼の思想のレクチャーだと言えると思う。それ故我々観客も、彼が投げ掛けてきたメッセージを正確に受け止め応答する必要がある。

上演は、アムステルダムの熱帯博物館でホーが偶然目にしたという、オランダの人類学者チャールズ・ル・ローのマネキンの背中が汗でビショビショになった画像で始まり、2012年の在位60周年式典に於いて、テムズ川の船に乗ったエリザベス女王の背中の汗をホーが岸から一瞬見たというセリフで終わる。この公演の中心的なモチーフは「内部」と「外部」の問題である。彼にとって重要なのはあくまでも「外部」の方であり、それは太陽とその熱によって人間の身体が掻く汗のイメージに象徴的に集約される。一方その「外部」の存在を隠蔽するのが「内部」である。それはイメージとしては1956年の映画『王様と私』の中に出現する、デボラ・カー演ずる19世紀末シャムのモンクット王の子供たちの実在の英語教師アンナ・レオノーウェンズの円形にふくらんだスカートである。このふくらんだスカートのイメージからホーは「グローバルな家政空間」という概念を創り出す。それは19世紀後半西洋の植民地に於いて、植民地の苛烈な太陽から植民者を守るためにその妻たる白人女性たちによって作られたくつろぎの空間である「我が家」を起源としながら、現代グローバリゼーションの空間も意味している。つまりホーにとっては、現代グローバリゼーションの空間は母性的な球体空間としてイメージされているということだ。そして、その内部には開かれていながら外部には閉じられている球体空間を動かしている力が愛と交換の振る舞いだというのである。その論旨の展開の中で、アンナ・レオノーウェンズの円形にふくらんだスカートと共にイギリスのエリザベス女王の「手を振る」という身振りもまた、映像及びホーがニューヨークの玩具店で見つけたという太陽光発電で動く玩具のエリザベス女王「ソーラー・クイーン」を使って徹底的に批判される。そして私たちが共有すべきなのは母性的抱擁である愛ではなく、支配できない太陽の下での労苦の汗であるべきだと結論付けられて終わるのである。

ホーの思想は、発汗行為に太陽エネルギーの過剰さの浪費を見るバタイユの思想とマルクス主義・フェミニズムを結びつけたものだと言えるだろう。汗を掻く身体に還元して、世界中の全ての人間を等価に考える思想と言っても良いかもしれない。何よりも我々が見逃してはならないのは、この作品が現在西洋で評価されている少なくない非西洋のアーティストの作品から感じられるネオ・コロニアリズムへの批判を内包していることだ。それらの作品は一見西洋と非西洋の文化的対話によって生み出された新たな表現のように見えるが、実際は西洋現代芸術の「愛」によって抱擁された非西洋伝統文化の焼き直しである。西洋と非西洋の間にあるヒエラルキーは「愛」の名の下に温存され、西洋文化の主体性は揺らぎもしない。結局非西洋文化で称揚されるのは相も変わらず伝統文化ということであり、帝国主義時代と何の変化もない。しかも帝国主義時代と違い、現在は商業主義も絡み非西洋側も自ら進んでその流れに乗っているので、病はより深いと言えるかもしれない。一方ホーの公演に伝統的な要素は何もない。人によっては欧米で流行しているスタイルを逸早く取り入れ模倣しているだけに思えるかもしれない。しかし例えば同じ東洋人である日本人の誰が、エリザベス女王をホーのように容赦ない風刺の対象として描いただろうか。西洋の植民地化から免れ、逆に同じアジアを植民地にした特殊な歴史を持つ故に鈍感になってしまったのかもしれないが、そもそもネオ・コロニアリズムが問題だという認識さえほとんど共有されていないのではないか。その点、母性的な球体空間に潜む権力構造を暴き出したホーの手際は見事というしかない。

だがホーの「労苦の汗」という言葉に、私はまだ近代の生産中心主義的思考の残滓を感じる。汗を掻く身体では現代のグローバリゼーションに抵抗する身体としてまだ不十分だ。我々は更に無為で空虚な身体に向かわなければならないと思う。つまり死体にである。
(2016年3月16日)
インフォメーション
TPAMディレクション ホー・ルイ・アン『Solar: A Meltdown』
2016年2月7日 KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ
寄稿家プロフィール
たけしげ・しんいち/1965年生まれ。ダンス批評。2006年より『テルプシコール通信』『DANCEART』『図書新聞』『シアターアーツ』『舞踊年鑑』、劇評サイト『wonderland』『WL』等に寄稿。また美学校主催イベントの企画も行う。