
韓国には、国立のコンテンポラリー・ダンスカンパニー(KNCDC)がある。これはアジア唯一であり、アジアの中でもいち早くコンテンポラリー・ダンスに取り組んできた日本にすらないもので2010年に設立された。初代芸術監督はホン・スンヨプで2014年からはアン・エスンが就任。アンはバニョレ国際振付コンクールの受賞を始めソウル・パフォーミング・アーツ・フェスティバル(SPAF)の芸術監督などを歴任し、韓国ダンス界を牽引してきた存在。来日公演もあり、2016年には自身のカンパニーで山下残の『そこに書いてある』を委嘱するなど(2014年秋に国際ダンスフェスティバル『ダンスの明日 Dance New Air』で来日再演予定)、日本との関係も深い。
本作『AlreadyNotyet』はアンの新芸術監督就任後第一作とあって、世界中から注目を集めていた。客席にはアジアのみならずヨーロッパやイスラエルなど、多くの国の劇場やダンス関係者が列席した。筆者は2012年にはソウルでアン自身のカンパニー作品『S≠P』を見て、そのスケールの大きさと表現力の緻密さに驚かされていたこともあり、今回はプレ公演を含めて4回見た。KNCDCというより大きな環境で、彼女の才能がどう発揮されるか、楽しみだった。

伝統とコンテンポラリーの絶妙な距離感
今作のタイトルの中には、「すでに Already」と「まだ Not yet」と異なる時系列が並んで接続された造語である。これは「身体が死んでも、魂はまだ残っている」という韓国のアニミズムやシャーマニズムに根ざした作品なのだそうだ。事前に渡されたテキストには「コクドゥ(葬儀に使われる木製の人形。共に埋葬され、死者を冥界に導くとされる)」「クッ(儀式)」「トッケビ(韓国古来の精霊)」といった、韓国の死生観に関わる用語の説明がされていた。
国立カンパニーという立場からも、またポスト・コロニアルの視点からも、こうした伝統文化への配慮は重要なことだろう。ただ、伝統文化は長い歴史を越えてきた魅力と強さに溢れているため、振付家は、伝統の魅力に寄りかかって安易な作品を創ってしまう誘惑と常に戦わなくてはならない。それはどこの国でも同じだ。伝統文化に敬意を払うことを言い訳にして、芸術的に何の挑戦もない退屈な作品は山ほどあるのである。
しかしアンは、そうした落とし穴に陥ることはなかった。伝統がもつ深い魅力を最大限に引き出しつつも、徹底したコンテンポラリー・ダンス的なスタイルと、透徹した理知的な眼差しを貫く手腕を見せたのだ。伝統とコンテンポラリーの適度な距離とギリギリの緊張感が、「生と死」という作品の重いテーマを支えた。韓国の伝統文化、音楽と歌なども使うが、そこにピアノやデジタル音も重ねていく音楽のイ・テウォンの柔軟さ、高いスキルと作品への理解を示したダンサー達。それらをまとめるアンの作品は、韓国ダンス界の新しい時代の幕開けを感じさせるに十分だった。

生と死を受け入れる伝統の豊かさ
まず冒頭から感心させられた。客席の照明が落ちたあと、かなり長く闇の状態が続くのである。観客は闇の中で、否応なく視覚以外の全ての感覚を研ぎ澄ますことになる。するとかすかにノイズのような音が鳴っていることに気づくのだ。それは闇に暮らしていた太古の人々か、棺桶の中にいるよう。これから舞台上で描かれる「死か、死に近い生」の状態を観客自身がまず疑似体験することで、観客もまた作品の一部となるのである。
やがて舞台上手のライトに人が照らし出される。その顔は真っ白い面をかぶっており、そこへはるか上空から韓国伝統の仮面が投影で次々に描き出される。そこで響く伝統的な発声法によるパク・ミンヒの声は力強くかつ透明感があり、深い森の奧から響いてくるような神聖さを感じさせた。
ここでは「死人に着せる白い大きな伝統的な着物を身に付けて、ぎこちなく動く男」や、葬式に使うという「紙を切り抜いた大きな紙人形ネック・ジョン(ヤン・ヒュンキョン作)」、「ボートに乗った伝統的な精霊トッケビたちのアニメーション(チョ・シャオワン作)」や、暗い中を「手足に小さな光をたくさん付けた二人」など、「我々とは違う世界の国の住人」が多数やってくる。トッケビ達は現実と非現実の世界をつなぐユーモラスで愛嬌あふれる造形をしており、生と死が普通に生活の中にあった時代を想起させるのだ。

「隠された死」と「情報としての死」
しかしそこからは一転して、現代の普段着姿の男女が出てきて、現代社会の様相を呈してくる。と同時に舞台上には「暴力や死そのもの」が浸透してくるのである。たとえば女が男の腹を何度も刺す/殴る仕草をするが、男は女の髪を掴んで振り回す。床に寝た男の身体を執拗に叩く男……やがて舞台上に転がった多くの身体は、まるで死体を片付けるように引きずられていく。
ここで描かれるのは「現代の日常生活の生と死」だろう。それはいくぶん屈折している。
なぜなら現代社会において、病気や死は巧妙に隠されているからだ。それら「不快な物」は病院等の目に付かぬ場所に隔離される。多くの人が自分の家ではなく病院で死を迎えるのが普通な時代。葬儀や埋葬も合理化されており、無駄な儀式は排除され、専門業者によってシステマティックに進行していく。いまや我々は、よほど親しい人でもなければ、死体に触れること自体が少ない。

その一方で、世界中の戦争や犯罪など「情報としての他人の死」は大量に与えられる。折しもこの公演の前には客船沈没の悲劇が連日報じられていた。さらにイジメや人間関係が原因の自殺なども含め、社会との関係において引き起こされる「社会的な死」は、たとえそれが地球の裏側でおこったことでも、すみやかに我々の元に届けられるのが現代社会だ。
舞台上では「取り憑かれたかのように女が跳び跳ね続ける」というシーンがあるが、やがてその女が集団に呑み込まれ、輪の一部となりながらも、一人だけ緑色のシャツのため疎外されたままだ。また男の肩の上に立っていた女が、そのまま投身自殺のように後ろに倒れこむシーンもある。さらに一列に並んだ男達の剥き出しの背中が執拗に叩かれ続ける……
かつて生と死が身近に実感できていた時代、多くの精霊は生活の中に息づいていた。それはこの世とあの世との媒介者である。しかし便利で快適な都市の中で、「実際に触れるリアルな死」の数は減り、「情報としての死」ばかりが増え続ける。そして「死の実感」が薄まると同時に「生の実感」もまた薄まっていくのである。世界は薄っぺらく自分を取り巻いているようにしか感じられず、あまりにもたやすく自分や他人の生命を傷つける事件が、毎日のように起こる。これらのシーンは、まさに我々の「豊かで空虚な社会」を照射しているのだ。

伝統とコンテンポラリーがダンスによって交差する
特に印象深かったのは、次の「男達が薄暗い照明の下で延々と踊り続ける」という長いシーンだ。
まずはフランスで一流のアーティストと活躍するライティング・アーティストのエリック・ワルツの照明が優れていた。明るいシーンでも素晴らしいが、ここでは「ダンサーの身体が浮かび上がるギリギリのライン」という難しいシーンにおいて、重量感のある空間を作りだしていた。イ・テウォンの音楽も、伝統的な曲、ロック調の音楽から、また静かな曲へとゆるやかな変遷を遂げていく。そしてダンサー達。おそらく即興なのだろうが、約20分間にわたって観客の関心を惹き付けながら踊り続ける力量は並々ならぬものだ。
だが正直なところ、途中で大きな変化があるわけではない。初日前のオープン・リハーサルで見たとき、このシーンは「長すぎる」と感じた。しかし上演を重ね、ダンサー達が作品の意図を深く理解するようになるにつれ、このシーンはどんどん成長し、忘れがたいものになったのだった。

ここに充満するエネルギーは、溌剌と生を謳歌するのではない。自分自身を浸食し尽くして死の底でのたうち回っているような、重く、出口のないものだ。まるでダンスを媒介にして生と死がひとつに溶け合うような、恐るべきダンスだったのである。その後の男性ダンサーのソロは、懸命に立ちあがろうとしては何度も倒れる。「立つことすらできないが、それでもまた立ちあがらざるを得ない」という強い意志が、広い舞台に充ち満ちていく。その姿には土方巽の「舞踏とは命がけで突っ立った死体である」という言葉を思い出さずにはいられなかった。
やがて人が出てきて、舞台一面に大量の紙が撒き散らされる。これは新聞や雑誌で、様々な「社会的な情報」が舞台を埋め尽くすことになる。冒頭で死者が着ていた真っ白い伝統的な死者の着物は現代の新聞雑誌によってツギハギになっている。こうして「社会的な死」を身にまとった男は、チラシを床に並べて作られた道をゆっくりと歩いて行く。
ここで、長くベルギーのバレエC・ド・ラ・Bで活躍していたという男性ダンサーのイ・ヒョソンによるソロは見応えがあった。パク・ミンヒの神秘的な声が、ときに語りかけ、ときに叫ぶように響くなか、即応するイの動きは飛び抜けて柔軟で、表情も豊かに使う。その様は、まるでいくつもの精霊トッケビたちが彼のコンテンポラリーな身体に次から次へ宿っては去って行くかのようだった。
そう。まず「伝統」が描かれ、次に「現代」が描かれ、ここに至って様々な形で現代と伝統が「ダンス」というアートの中に交差しているのである。

新しい日々を紡ぐために
しかしクライマックスはその先にあった。後ろにある高い壁が二枚、左右にドーンと倒れると、逆光に照らされた異界への入り口が舞台中央に大きく開かれるのだ。前面には透明な幕が張られているが、それは特殊なプラスティックで、吹きかかる水によって、みるみる溶けだしていく。そして「異界への道」が、あるいは「光に満ちた未来への道」がポッカリと穴を開ける。人々が光の中に歩み去って行く様は、まさに荘厳と言っていい神話的な情景だった。
独り残った大男が、手鏡を回し続け、暗転で幕…… だが、まだ終わらない。闇の中、劇場一杯に電車のような音が鳴り響くのである。先ほどまでの祝祭的な空気は一掃され、我々は現実に引き戻される。これは新芸術監督アン・エスンの、「伝統に寄り添ってファンタジーへ逃げたりはしない」という意思表示にも思えた。「多くの死も生も、現実も精霊も、全ては我々の日常生活の中にあり、そこから逃げてはいけないのだ」ということを、あらためて実感させられたのである。

精霊トッケビは、人がそれを見たり感じたりするからこそ、名づけられ、語り継がれてきたものだ。つまり「生活の各所に生命を感じながら日々を過ごす」という世界への認識がそこにあった。だからこそ死んで身体がなくなってもなお、愛おしい人の魂に思いを馳せることができた。クッ(儀式)を通し、コクドゥ(人形)を供えるとは、そういう思いの表れだろう。かつては遠い先祖との連なりの中に自分がおり、死のリアルさが生をより強靱なものにしていたのである。
だが文明の発達によって、我々はより少ないエネルギーで生きていけるようになった。その結果、身体性はどんどん希薄になり、精霊を感じる力も失われていく。しかしだからこそ、ダンスというアートの重要性は、これからますます増していくのである。この作品は、ダンスにそれだけの力があることを示していた。
新生KNCDCは、素晴らしいスタートを切った。その重要性は韓国のみならず、アジアの中でますます増していくだろう。ぜひともこれからは韓国以外のダンサー、振付家、そして様々な種類のアーティストにも委嘱してほしい。国際感覚豊かなアン・エスン芸術監督のもと、KNCDCが「アジア中のアーティストが出会う場」へと成長していくことを期待したい。
インフォメーション
『AlreadyNotyet』
2014年5月15日〜18日 アルコ劇場(ソウル)
振付:アン・エスン Ahn Aesoon
韓国国立コンテンポラリー・ダンスカンパニー(KNCDC)
寄稿家プロフィール
のりこし・たかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)『どうせダンスなんか観ないんだろ!?』(NTT出版)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)など著書多数。06年にニューヨークのジャパン・ソサエティからの招聘で滞米研究。07年イタリアのダンス・フェス『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。ソウル・ダンスコレクションとソウル国際振付フェスティバル審査員。ダンストリエンナーレTOKYO、福岡ダンスフリンジフェスティバル、日韓デュオダンスフェスティバル等のアドバイザー。エルスール財団新人賞選出委員。