
2011年3月に発生した東日本大震災から1月半ほど経った5月1日、渋谷駅の通路に設置されている岡本太郎の壁画作品「明日の神話」の右下に、崩壊した福島第一原発を思わせる風刺画がはめこまれ、にわかに注目を集めた。その後、アーティスト集団Chim↑Pom(チンポム)が風刺画を設置している動画がYouTubeにアップされ、また5月20日から25日まで無人島プロダクションで開催された同グループの展覧会『Real Times』にてその動画が展示されたことで、一連の騒ぎがChim↑Pomによるものであることが明らかになり、この原稿を書いている5月25日現在も、Twitterなどのウェブ・メディアを中心に多方面で議論を巻き起こしている。


それらの議論のなかには、それが「アートなのか」「犯罪じみた迷惑行為なのか」という二者択一の論理に終始しているものも散見される。公共空間におけるゲリラ遂行的な表現行為には常にその手の論調がついてまわるものだが、そこから得られる生産性は乏しいと言わざるをえない。例えば、公共空間に風刺画をゲリラ設置するという手法はイギリスのストリート・アーティストBANKSYを彷彿とさせるが、ストリート・アートやグラフィティをめぐっても、「アートか」「落書きか」という論争の不毛さが思考を停滞させてきた。他方、アートの圏外にあることをあえてアートとして行なう、という作法は、しばしばスキャンダルを糧にドライブしてきた近現代美術において基本的なジェスチャーですらある。

BANKSY 『Wall and Piece』 Century, The Random House Group Limited, 2005
風刺画が設置された直後、事態はグラフィティのように匿名的なものであったが、BANKSYよろしく記録動画がYouTubeにアップされ、さらにChim↑Pomという作家名とともに展覧会におさまることでアートの論理に回収されてしまったことに対し、懐疑的な見解も見受けられた。だが、顕名性を非難し匿名性を称揚する思考には、作家名という単位から逃れることが困難なアートという制度の欲望(あるいは、固有名性が希薄な逆の立場からのルサンチマン)が透けて見える。言い方を変えれば、顕名であることがアートの一般形式であるならば、匿名であることはストリート・アート/グラフィティの一般形式に過ぎず、匿名/顕名の2分法は、少なくともそれだけではアートの「内と外」を代替するロジックしか生まないだろう。このように、アートという言葉の水準にとどまる限り、分析が一般論に収斂し、対象そのものの構造にまで届くことはない。この文章では上記の点を意識的に留保しつつ、Chim↑Pomのやったことについて僕なりの考えを提示してみたいと思う。
展覧会『Real Times』では、件のプロジェクトは「LEVEL7feat.『明日の神話』」というタイトルが与えられていた。以下、このプロジェクトを「LEVEL7」と呼ぶことにしよう。まず、生誕100年を迎えた岡本太郎と、世界の注目を集める福島第一原発という、アクチュアルなコンテクストを結びつけた手際の良さは「LEVEL7」の基底をなしている。考えてみれば、Chim↑Pomは今までも相容れない両極にあるようなコンテクストを強引に束ねることで、面白い作品を作りだしてきた。消費空間の負の剰余であるドブネズミと、ポップ・カルチャーのアイコンであるピカチュウ、村上隆の「スーパーフラット」といった複数のコンテクストを剥製にまとめた「スーパー☆ラット」、セレブリティや高級ブランド品といった上流階級のシンボルと、地雷に苦しむ第3世界のカンボジアを重ねあわせた「サンキューセレブプロジェクト アイムボカン」などは、現代美術のお手本と言いたくなるくらい巧みにコンテクストを操作することでなりたっている。
しかし、「明日の神話」がもともと原爆の情景を描いていることを考えれば、そこにあるのは異質なコンテクスト同士の衝突ではなく、原爆/原発という物語のアップデートに過ぎない(実際、Chim↑Pomは取材に応えて「被爆のクロニクルに福島をつけ加えたかった」という旨の発言をしている)。「LEVEL7」において前景化しているのは、コンテクスト操作の緊張感ではなく、むしろゲリラ設置という表現形式の方だろう。それは、この方法論が「異質なものを加算していく」という性質をもっているからだ。この加算の論理こそが踏みこんだ考察を要する点だろう。
粉川哲夫によると、公共空間における落書きの加算の論理は次のようなものである。「たとえば白い壁に誰かが『fuck』と書き、別の誰かがそれに『you』を書き加え、さらに別の誰かが『-rself!』 を加えて『fuck yourself!』となるといった形で発展していく(※1)」。この例は、ふたつのことを暗示している。まず、書き加えられるたびに言葉の矛先はずらされてしまう。最初の人物は、その言葉を公共空間を通過する不特定多数に向けていたとすると、「you」を書いた人物は、最初の人物に向けて書き返している。さらに3番目の人物は、2番目の人物に対して「fuck yourself!」を突きつけることになるだろう。このような様相を展開していけば、「BUS STOP」を「BUSH STOP」に書き換えたロンドンの落書きのように、意味の「転用」(シチュアシオニスト)を導きだすこともできる。

『STREET ART AND THE WAR ON TERROR』 Edited by Eleanor Mathieson, texts by Xavier A. Tapies, Rebellion Books, 2007
もうひとつは、隙間を創りだすということだ。「fu k」のように内側に隙間があらかじめ可視化されていれば、そこに「c」を補うのはたやすい。だが「fuck」であれば、何かを加算するにはそれが潜在的に「fuck you」であるかもしれないことを想像し、書き手が「you」のための隙間を新たに読みこまなければならない。その時、潜在的なスペースが捻出されたことが重要なのであり、隙間そのものが新たに創りだされたのだと考えてみたい。ここで、単語/文字の関係を都市におけるフレーム/スペースの関係に置き換えれば、これは公共圏においていかに表現のための新しい空間=隙間が生みだされるかという問題として考えることもできる。
さて、ゲリラ的表現がもつこれらの性質は、実のところ「LEVEL7」においてほとんど活用されていない。「明日の神話」がもつ原爆/原発のコンテクストは転用されるどころか補強されており、またパネルが設置された隙間は、壁画の右下部分に「あらかじめ」可視化されていた。表現のための隙間は生みだされたのではなく、パズルの一片をはめるようにして埋められたに過ぎない。「LEVEL7」は、「明日の神話」の物語を数十年と、キャンバスを数十センチ引き延ばした以上に、何かを新たに生みだしたとは言い難いだろう。

BANKSY 『Wall and Piece』 Century, The Random House Group Limited, 2005
だがそのことは、BANKSYやZEVSといったストリート・アーティストの実践と比較した時に興味をそそる。「落書き禁止」の表記を皮肉って、BANKSYが何も書かれていない壁に「DESIGNATED GRAFFITI AREA(公認グラフィティ・エリア)」というステンシルを吹きつけた時、物理的実体としての壁は、権力による禁止でも、ストリートからのレジスタンスでもなく、双方向のサーキット・ゲームそのものがあらかじめ内包された装置として再-現象した。あるいは「VISUAL KIDNAPPING(イメージの誘拐)」で、ZEVSがLAVAZZA社の屋外広告のモデル画像を切り取り、誘拐と称して身代金を同社に対して要求した時、からっぽの記号から文字通りのからっぽの穴(切り抜かれたシルエット)へと変貌した屋外広告は、国際企業とゲリラ・アーティストの駆け引きゲームを駆動させる空虚な中心として自己規定し直すことになる。これらBANKSYやZEVSの事例は、壁や広告のまっさらな状態に意味や記号を充填するのではなく、むしろそれらが互いに拮抗しあうフィールドそのものを直接引き出しているのだと考えてみたい。

『ZEVS: ELECTROSHOCK』 © NY Carlsberg Glyptotek & the authors, 2008
こういった試みは、とりわけグラフィティやストリート・アートの系譜において新鮮なものだろう。そもそも、粉川が分析した落書きは主に60〜70年代の政治的動乱の時代を背景としており、それが加算の論理に基づいていることはすでに確認した。その後80〜90年代を経て「落書き」は「グラフィティ」になり、サブカルチャーとして新たなモードに突入したことはよく知られている。グラフィティは、すでにある落書きに書き加えたり、場の意味性を操作するのではなく、自らの名前を記号として都市空間にゴーイング・オーバー(上書き)していくことをミッションとした点で、60年代の落書きとは決定的に異なっていた。「DESIGNATED GRAFFITI AREA」や「VISUAL KIDNAPPING」はしかし、加算の論理やゴーイング・オーバーといった、落書き/グラフィティのゲームが依拠しているアーキテクチャそのものを浮き彫りにしている点で、もう一歩踏みこんだ戦略をとっている。
次のことを指摘してこの文章を閉じることにしよう。加算の論理、ゴーイング・オーバーからBANKSYやZEVSにいたる一連の企てのどれとも、「LEVEL7」は微妙に異なっている。加算の論理に近接しているにも関わらず、それは「転用」や「隙間の創出」を図らずも回避しており、他方で、「DESIGNATED GRAFFITI AREA」や「VISUAL KIDNAPPING」をアクロバティックに反転させたような印象もある。BANKSYやZEVSが「何もないところから落書き/グラフィティのルールそのものを一挙に引き出している」とすれば、「LEVEL7」は「落書き/グラフィティのルール(加算の論理)を模倣しながら、そこから新たに何も立ち上げない」からだ。フクシマに加えてチェルノブイリをも思わせるタイトルとは裏腹に、「LEVEL7」に観測されるのは意味のマグニチュード・ゼロであろう。そのことに対する評価をここで下すのは、この文章の目的ではない。とはいえ、岡本太郎や福島第一原発という「リアルタイム」の話題性とも、それが「アートか」「落書きか」というアナクロニックな問いとも異なる水準で、「LEVEL7」はそれなりに複雑な構造をもっており、僕にとってそれは少なからず興味深いものだとだけ言っておきたい。
(※1) 粉川哲夫『HISTORY OF SIGN GUERRILAS』、STUDIO VOICE VOL.360、2005年12月号、INFASパブリケーションズ
寄稿家プロフィール
おおやま・えんりこいさむ/1983年、東京生まれ。美術家。ペインティングやインスタレーション、壁画などの作品を制作、発表している。主な展示に「FFIGURATI」(con tempo, 2009)、「memento vivere / memento phantasma」(旧在日フランス大使館, 2009)、「InsideOut of Contexts」(ZAIM gallery, 2010)、「あいちトリエンナーレ2010」(名古屋市長者町, 2010)など。www.enricoletter.net