
『明晰さは目の前の一点に過ぎない』(2006年)、『明晰の鎖』(2008年)と続いた「明晰三部作」の3作目。「明晰」シリーズのみならず、ここ数年きわめて活発に作品を公表してきた大橋可也&ダンサーズは、本作でひとつの到達点を示した。

と、前置きしつつ、本作に迫る前に、大橋の精力的な活動ぶりをふり返っておきたい。それは生半可なものではなかった。昨年の『帝国 エアリアル』公演へ向けた様々なイベントでは『ロスジェネ』の論者たちを招くトークを開催したり(筆者もこのトークに参加した)、本公演では0円のチケットを用意したりと、当時一種のブームだった「貧困」のテーマにまっすぐ応答しようとした。その姿勢は、作品制作から逸脱しすぎではないかとの意見も聞こえてきた一方で、多くの新しい観客を呼び込んだ。また『帝国 エアリアル』での伊東篤宏+HIKOの起用に象徴されるような、先端的なミュージシャンとの大胆なコラボレーションにも驚かされた。これほどダンス・シーンを他ジャンルの今日的な状況とシンクロさせようとしてきた作家はいまいるだろうか。今年7月のイベント「明晰の夜」にいたっては、相当に作風の異なる演出家・美術作家の飴屋法水や映像作家・大木裕之を招いて大橋と筆者とでトークをひらくなんてことまで決行した(思えば、最も大橋の活動に巻き込まれた者たちの1人に、筆者はなるのかもしれない)。
他のジャンルの作家たちを巻き込んで前進していこうとする大橋のバイタリティは、近年のダンス界ではレアである。とはいえ、例えば、かつて土方巽はそうしたバイタリティを発揮していたのではなかっただろうか。土方が今日、(暗黒)舞踏と呼ばれるダンスの礎を築いたとすれば、それはダンスの方法という点のみならず、舞踏現象とでもいうべき事態を引き起こした点にも目を向ける必要があるだろう。舞踏は60年代以降ある時期まで、社会現象だった。他の芸術ジャンルの作家たちに対してだけでなく、社会そのものにインパクトを与え、そうすることで舞台芸術と社会との間に摩擦を引き起こした。大橋の目指していることが、ひょっとしたらそんな舞踏の社会現象化だとしたら?

ただし、現代においてこれは極めて困難な目標に違いない。60−70年代当時、戦後の闇、前近代の闇が消えかかる最中、時代は土方の提示する「暗黒」性を求めていた。2009年の私たちにとって、そんな闇の存在など過去のこと。ならば、今日のニーズに適った舞踏の姿は? いかにも「舞踏」といった外見は、パロディとして受け取られればよい方で、今日の観客の多くにとって嫌悪の対象でしかないだろう。通常では隠れてしまっている人間の部分(暗黒面)を明るみに出し、踊りへと昇華させるのが舞踏。そう捉えるならば、この舞踏が今日の社会の中でリアリティを獲得しうるとすれば、その可能性の条件は今日の社会が宿す闇の姿を特定することの内にしかあるまい。

今日の闇のかたちをどうすれば浮かび上がらせることが可能か——大橋が蛇行しつつ格闘してきたのはこの問いに向けてだったのではないかなどと『深淵の明晰』を見ながらずっと考えていた。「明晰」とは、この闇を明るみに出すという一点に注がれている言葉なのか、とも考えた。そうだとすれば、大橋がなによりも強く求めていたのは舞踏の今日的可能性だったのではないか、とも思った。舞台にあらわれる男たち、女たちはみなふわふわとよりどころなく、漂うように存在している。よりどころのなさを嘆くのでもない。不安な気持ちがあからさまに表出するのでもない。薄い存在。軽薄というのとも違う。ひとのなかに核がない。けれども、木の葉が風に揺れるのに似て、身体は引っ張られるように流されるように動く。
今日の闇は、闇の消滅さえ記憶にないひとに宿る闇であり、不安のありかがわからないことの不安の内に、「よりどころのなさ」というよりそもそも「よりどころ」などというものの実感さえ抱いたことのない無感覚の内に、潜むものだろう。昨晩の夢がかすかに思い出される瞬間みたいに、あらわれては瞬時に消えてゆくものとして、それはある。いや、「ある」というには微かすぎるほど、その存在は捉えがたい。映像や大谷能生らの音楽演奏も重ねながら、大橋はこの微かな存在を確実に舞台に輪郭づけようとした。

舞踏の闇を明晰にしたいとの望みは、倫理的であると言えるだろう。舞踏に対して最大限誠実であろうとすることだから。その明晰への意志が大橋らしいダンスを引き出したとき垣間見えたのは、倫理のみならず、明晰の美学だった。本作が大橋のひとつの到達点だとすれば、そこに大橋の倫理が見えたというだけでなく、彼の美学が示されたことを無視してはならない。もちろん、センセーショナルな作品を喜ぶ観客もいるだろうし、そうした者たちにとって本作は、いささかおとなしく映ったかもしれない。例えば、ストロボを多用してきた過去作品を思えば、照明は今回抑制の利いたものだった。けれども、照明などによる直接的なショックを利用しなくとも、大橋の狙いはダンサーたちの動作の内に明らかに示されていた。大橋のダンスというものが、他のどんなダンスにも似ておらずただ大橋のダンスとして結晶していた。
そしてそれは、新しい舞踏としても見ることの出来るものだった。さて、そうである限り、大橋には是非とも、土方が行ったように、観客を巻き込む仕掛けに照準を定めてもらいたいと望む。闇に向き合うことで活力をえた土方の時代の観客のように、闇に向き合うことが観客にとって何かしらのカタルシスへと通じるものとなる、そんな仕掛けが今日発明されるならば、これほどわくわくすることはないからだ。
寄稿家プロフィール
きむら・さとる/1971年、千葉県生まれ。日本女子大学人間社会学部文化学科専任講師。美学研究者としてまたダンスを中心とした批評家として活動している。初の単著として『未来のダンスを開発する フィジカル・アート・セオリー入門』(メディア総合研究所)がある。