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033:from Paris - パリ市立劇場での歴史的「事件」─マギー・マランの新作『Turba』で起きたこと─
熊倉敬聡
Date: March 17, 2009

暗闇のなか、ここかしこ、携帯電話の画面が灯る。時間を見ているのだろう。わざわざ音を立て電源を入れなおす者までいる。さすがに、隣の客が小声で叱責している。あちこちで、席を立つ者が絶えない。私の近くでは、お喋りしはじめる輩もいる。最初の暗転。と同時に、あちこちから「ブラボー」と喝采が湧き上がる。揶揄をこめて。

 

ヨーロッパ中世の貴族のなりをした女性が、薄闇のなか、ルクレティウスの『物の本質について』の「シミュラークル」に関する有名な一節を読み上げている。と突然、客席から一人の男性が舞台に踊りながら駆け上がり、その女性の目の前で踊りだす。と間髪をいれず、もう二人の男性が舞台に駆け上がり、その男性を取り押さえる。いったい何事が起きたのか? 演劇的仕掛けか、それとも堪りかねた闖入者か? 客席からは「ブラボー」、拍手、ブーイング、野次が乱れ飛ぶ。と、中から、ひときわ大声で「もう、やめ、やめ、やめにしましょう! 作品をリスペクトしないんだったら、もうこれでやめにするわ!」と叫ぶ女性。観客か? いや、劇場のディレクターのようだ。かなり上の方の客席にいた彼女が舞台へと降りていく。そして、客席に向かって、上演の中止を告げる。またもや、「ブラボー」、拍手、ブーイング、野次の嵐。呆気にとられていると、次々に客が席を立っていく。が、私同様、席を立ちかねている者たちも大勢いる。騒然。ダンサーたちも、呆気に取られながら立ち尽くす者、鬘を脱ぎ始める者、何事が起きたかと舞台に現れる者など。ディレクターが、舞台の袖で、何人かのスタッフたちと何やら話しこんでいる。様子を見守っていると、再びディレクターが叫ぶ。「観たくない人はとっとと劇場から出て行って! 観たい人たちだけと続けるわ!」その言葉に押されて立ち去っていく者、残って「ブラボー」と叫び拍手喝采する者。それでも、三分の二は残っただろうか?擾乱の静まりを待ち、上演再開。その後は、つつがなく進行し、ひときわ熱のこもった「ブラボー」と拍手喝采とともに終演した。

 

30年近く数限りない舞台を観ているが、こんなことは初めてだ。しかも、駆け出しのアーティストの作品ならいざ知らず、よりによってフランス・コンテンポラリーダンスの大御所、マギー・マランの新作である。もちろん、批評家の酷評や政治的な外圧で上演が中止になることは珍しいことではない。だが、今回は作品の内容が内容だっただけに、“歴史的”事件ではなかろうか。

 

場所は、パリ市立劇場Théâtre de la Ville。作品は 『Turba』。ルクレティウスの『物の本質について』の断章が、各国語で「ダンサー」たちにより朗読される中、「ダンサー」たちは「ヨーロッパ」の歴史を象徴するような出で立ち(古代ローマ市民、甲冑の騎士、ヴァイキング、宮廷貴族…)を纏いつつも纏いきれず、「踊ること」への大いなる躊躇い、「演じること」の徹底した無力さを、執拗に、あからさまに、手を変え品を変え、繰り返す。この、エピキュロスの思想を継承し、超越的宗教性を一切廃し、宇宙を無数のアトムの生々流転と説いた、謎の詩人ルクレティウス。彼はまた、ある種のインド思想にも似て、人間が通常「現実」と思い込んでいる世界は実は「薄い膜」の如き“シミュラークル”(仮象)にすぎないと断じた。しかも、件のシミュラークルの断章を読み上げている女性は、演劇もまた「現実」同様(あるいは「現実」も演劇同様)シミュラークルにすぎないという一節を読み始めるではないか。そのとき、「事件」は起きた。

 

『Turba』は、次の一節で終わる。「死は、突然、予期せず、ここに、お前の枕元にやってくる。まだまだ、これから大いに人生を楽しんでやろうと思っていた矢先に。まことに残念だが、来るべき時は来た。もうお前の歳では、こうしたすべては諦めなくてはいけない。さあ、今や、他の者たちに場所を譲るべきだ。穏やかな心で。」ルクレティウスを借りたマギー・マランは、ある個人に死を宣告しているわけではない。おそらく、「演劇」というシミュラークルを作り出した「ヨーロッパ」の歴史全体、その「現実」=シミュラークル全体に、死を宣告しているのだ。「歴史の終焉」、「演劇の死」。しかし、よく考えてみれば、彼女が多大なるインスピレーションを受けたベケット自身、誰よりもこの「終焉」「死」を体現していたのではなかったか。いや、ベケットに限らず、「現代演劇」そのものが、ある意味で「演劇」を「終焉」させ「死」に赴かせることにより辛うじて延命していた張本人ではなかったか。いや、「現代演劇」のみならず、「現代芸術」全体が、「芸術」の「終焉」ないし「死」による「芸術」の延命工作であったのは、もはや芸術学史上周知の事実だ。

 

したがって、何も、今回の 『Turba』という作品が、特別「演劇の死」ないし「芸術の死」を告げる記念碑的作品だったということではない。「事件」はそこにはない。確かに、その「終焉」の手法、「死」の手法が、あまりにあからさま、あまりに意図的に不器用でありながら、延々と繰り返されるものだから、さすがのパリの、しかもこうした「終焉」や「死」を見慣れているはずの市立劇場の観客の多くも、その「死」のあまりの露骨さに辟易したとしても当然といえる。だから、「事件」はそこにはないのだ。真の「事件」は、いかなる外的理由がないにもかかわらず、劇場のディレクターが「もうやめましょう!」と叫び、実際に「中止」したことにあるのだ。つまり、「演劇の終焉・死」という論理で辛うじて生き延びてきた「現代演劇」の、その論理そのもの、存在理由そのものが彼女の英断(?)で“終焉”し、“死”してしまったのだ。もはやこれ以降、この「事件」以降、「現代演劇」「現代芸術」は成立しえない。「来るべき時は来た」のだ。「さあ、今や、他の者たちに場所を譲るべきだ。穏やかな心で。」だがいったい、誰に譲るのか?

 

ディレクターの「英断」は、しかし、結局は上演再開を彼女が選んだ(そして私を含む多くの観客がそれを望んだ)ことにより、その歴史的衝撃力をなし崩しにしてしまった。彼ら(そして私)はやはり職業的・制度的無意識として「現代演劇・芸術」を終わらせたくなかったのだろう。「来るべき時」は来たが、それは歴史に一瞬の裂け目をもたらし、すべてを奈落に突き落とした後、が、何事もなかったかのように再び封印されてしまったのか?いや、私は、これは、これから世界のいたるところで訪れるであろう多くの「来るべき時」の最初の現れの一つだと思うのだ。私たちは、はたしてその「時」を「穏やかな心で」迎えることができるだろうか。

寄稿家プロフィール

くまくら・たかあき/1959年生まれ。慶應義塾大学理工学部教授。学術博士。著書に『女?日本?美?』(千野香織と編著、慶應義塾大学出版会、99年)、『脱芸術/脱資本主義論』(同、2000年)。『美学特殊C─「芸術」をひらく、「教育」をひらく』(同、03年)など。08年4月より09年3月までパリに在住。NPO法人「芸術家と子どもたち」の理事でもある。