
京都在住の批評家が日々の見聞や邂逅についてアト・ランダムに書き綴るメモランダム。ドタバタ紀行の跡を辿ると時代の動きが見えてくる……。(随時掲載)
前回、直島・犬島を二度も訪れたドタバタ紀行の話をしたのだが、実は二度目の旅はまず香川県の牟礼にあるイサム・ノグチ庭園美術館から始まった。実のところ、これは浅田家のルーツを訪ねる旅だったと言ってよい。浅田家は牟礼の庄屋で、医者めいたこともしていたという。で、祖父の浅田孝太郎が東京大学に進んで医学を学び、時代は下るが『ぼっちゃん』(夏目漱石)を思わせる形で香川ならぬ愛媛の松山の日本赤十字病院に赴任した、というわけだ。そこで三人の子どもが産まれ、末っ子の浅田享、つまり私の父は、祖父をついで医師になった。しかし、長男の浅田孝は東京大学に進んで新進の助教授だった丹下健三に建築を学び、戦争中、海軍将校として飛行場施設の建設やダムの修理–そして被爆した広島の救援などに走り回ったあと、戦後、大学に復帰し、やがて丹下健三研究室を支える存在となったのだ。今治の空襲で母を失った丹下健三が広島平和記念公園をつくったとき、松山の空襲で実家が焼失した(ただし死者・負傷者はいなかった)浅田孝がアシスタントを務めたというのも、不思議な縁ではある。
ともあれ、浅田家は香川にルーツがあったため、浅田孝は丹下研究室と香川(とくに金子正則県知事)をつなぐ役割を果たし、丹下健三とその周辺の人々の仕事が香川周辺に多く建てられる結果となった。もうひとつ、アメリカ生まれでありながら、彫刻家として庵治石に惹かれていたイサム・ノグチのためにも、庵治石の石切場に近い牟礼のアトりエを世話したようだ。丹下健三は広島の原爆慰霊碑にイサム・ノグチのデザインを考えていたのだが、「アメリカ人ではダメだ」という感情論におされて実現できず、イサム・ノグチの貢献は橋の欄干にとどまった。このことで多少とも傷ついたはずのイサム・ノグチは、しかし、アメリカを本拠としながら、牟礼のアトリエをことのほか愛し、そこで旺盛な制作活動を展開した。彼の死後、それが周囲の人たちによって見事に整備され、イサム・ノグチ庭園美術館となったのである。
実をいうと、私は長らくこの場所を訪れる気にならなかった。昔、親戚がかかわった場所、とくに、悪事の跡ならまだしも、善行の跡で妙に感謝でもされては、直接関係のない者としてはむしろ居心地が悪い。また、イサム・ノグチが素晴らしい彫刻家であり、魅力的な人物でもあったことはよく知っているが、周囲の人が死者を過度に美化し、死者のいた場所を「聖地」のようにしてしまっているとしたら、それにもまた違和感を覚えるだろう……。
私がイサム・ノグチと最後に挨拶したのは、1986年のヴェネツィア・ビエンナーレの折だった。アメリカ館の代表に選ばれたイサム・ノグチは、「あかり」(照明器具)のような道具は排除して純粋彫刻に集中しないと受賞は難しいという、展示担当の磯崎新らの忠告を無視して、あえて子どものためのすべり台を正面に据え、「あかり」なども大幅に取り入れた展示を見せた。案の定、受賞は逃したものの、イサム・ノグチにとっては欧米のモダン・アートの自律性の神話を日本的な「用の美」によって打ち破る確信犯的な展示だったのではないか。そのとき最後に会ったイサム・ノグチは、白いスーツを着て、大きく揺れる乗り合い蒸気船(ヴァポレット)の上にすっくと立ち、静かに微笑んでいた。ピンと背筋がのびて、しかも柔軟なその姿を、私は今も忘れない。その思い出を大切にするためにも、あえてアーティストのいなくなったあとの旧居を訪ねることはすまいと思っていたのだ。
しかし、こうした場合、往々にしてそうであるように、結論からいって、イサム・ノグチ庭園美術館訪問は、実に素晴らしい体験だった。建物や庭のあちこちに作品を見つけると、いささか困ったことに、それはもうその場所でしか見られないとさえ思えてくる。作品が、素材として選ばれた石や、途中まで手の加えられた石と無造作に並列されているところも、実に面白い(ここには実はどこまでを作品と考えるかという難問がひそんでもいる)。そして、小高い丘の上に墓の代わりに置かれた石を拝し、ふと周囲を見回すと、そこには、いわゆる「日本的風景」とは異質な、むしろクールベやセザンヌが描いたとしてもおかしくないだろう岩山や石切り場、そして遠く壇ノ浦から屋島に至る雄大な風景が展開するのだ。この風景の中で、この石に触れながら、老彫刻家が創造の道を深めていったのだとすれば、それは素晴らしい晩年と言うべきだろう。ひとりのファンとして、また浅田孝の甥として、そんな実感がもてたことは、この旅の大きな収穫だった。路傍の木にたわわに実った枇杷を眺め、祖母がこの果物を偏愛していたことを思い出しながら、私は初めて訪れたこの地を故郷と呼んでみたい誘惑に駆られていた–むろん決してそう呼ぶつもりはないけれど。
ちなみに、晩年のイサム・ノグチがマケットまでつくりながら完成することのなかったモエレ沼公園が、やはり生前の協力者たちの手で見事に完成されていることを、ここで付け加えておきたい(そこには庵治のほか犬島の花崗岩も使われている)。札幌郊外の広大なゴミ捨て場を文字通り「大地の彫刻」として甦らせたこのプロジェクトは、イサム・ノグチの構想力の豊かさを遺憾なく示す傑作だ。アーキテクト5の建てたガラスのピラミッドを中心とする建物は、成功しているとは言えず、そもそも不必要だったと思うけれど、なにしろ公園全体の巨大さゆえにそれもさして気にならない。たんにオブジェを見るのではなく、広大な空間を歩きながら身体で起伏を体感する–これはそのように体験されるべき「メタ彫刻」なのだ。
振り返ってみれば、イサム・ノグチが出発点で直面したのは「ブランクーシとジャコメッティの後で彫刻は可能か」という問題だったと言ってよい。むろん、彼はその問いを避けることなくしかも見事な彫刻をつくってみせた。また逆に、純粋彫刻の閉域から出て、遊具や「あかり」をつくってみせもした。しかし何より、彼は、さしずめ発掘現場をシンプルにモデル化したようにも見えるジャコメッティの「No More Play」を逆手にとり、彫刻をそれを包み込む広大なプレイグラウンドへと解き放ってみせたのだ。もはや彫刻は不可能かもしれない、しかし、彫刻を超えた場を構想することはできる……。
その意味で、牟礼の風景の中にアトリエや墓が点在するイサム・ノグチ彫刻庭園、そして、北海道の広大な大地に展開されるモエレ沼公園という二つのプレイグラウンドは、そこに配されたいくつかの彫刻作品以上に、イサム・ノグチの代表作と言うにふさわしいものだろう。美術館で彫刻と向かい合うだけではなく、彫刻の配されたそれらの風景の中を歩きながら風景そのものを「メタ彫刻」(「ポスト彫刻」にして「プレ彫刻」でもある)として経験する。イサム・ノグチの遺産とは、そのようにして体験すべきものだと思う。
寄稿家プロフィール
あさだ・あきら/1957年、神戸市生まれ。京都造形芸術大学大学院長。同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。