

どんな親切な人も、どんな悪人も、いつか年をとって老人として生きていくことになる。東京で年をとるとどんなことになるのか、ふと考えてみた。
錦糸町の場外馬券売場はいつも年寄りでごったがえしている。若者も若干見受けられるが、そこはまさに老人支配の空間で、とくに男。おじいちゃんウォッチングをするなら錦糸町が最高のスポットだ。東京の老人は年をとっても決して家にこもっているわけではなく、派手に遊ぶ。もちろん競馬は若い人もするが、じじいの遊びっぷりは容赦ない。だいたい、ひどく酔っぱらって醜態をさらす、負けが込んで訳もなく警備員にからむ、罵声をモニターに向かって浴びせる、場内を散らかして汚す。こういった傍若無人ぶり、ひとことで言うと今の渋谷で遊ぶ若者よりも、はるかにマナーが悪いのは老人たちだ。


東京はひとことで言うとマナー重視の街で、大勢の人が生きていくためにルールやモラルは地方よりひときわ厳しいはずなのに。ルール、モラルを無視した老人たちのやさぐれぶりに、僕は実は惹かれてしまった。僕が東京のジジイが気になりだしたのは、自分が子供のころに父親を亡くしているので、年上の男に対して持つコンプレックスのようなものもあるかもしれないが、どちらかというと「人間は、成長などしなくていいんだ」という生き方を体現してくれている安心感からかもしれない。
もう定年退職してそう。サラリーマンでもないのでヒゲも剃らない。歯も磨かない。風呂にも入ってる気配がない。地べたに平気で寝っ転がる。で、モニターを食い入るように見て勝負にだけ専念している。駄菓子屋でくじをひく小学生の方がよっぽど行儀がいい。でも、そういう光景を見て僕は東京というかこの国が好きになったのも事実。ちなみにせっかく馬券場へ来たので自分も買ってみた。結果は惨敗。でも別に負けたからと言って、やけ酒もあおらないし、警備員につっかかったりする気は起きないけど、なぜか(?)ジジイは、まるでそれが仕事であるかのように周囲にからんでいる。うーん強者。たぶん見た目は老いぼれても、まだまだ肉体はしばらく滅びないことは間違いない。

さらに浅草へ足を伸ばしてみた。ここの馬券場もやさぐれ老人の社交場と化して大変盛況の様子。この浅草の馬券場周辺は、他にも老人大歓迎のモツ屋、ウドン屋、映画館、寄席、なんでもある。よれよれのスーツを着たおじいちゃんが、ポリ容器に入ったウドンをアスファルトの地べたに置いて、ウンコ座りしてトランジスタラジオに聞き入りながら食っている。そしてみんな酔っている。古い日本映画やポルノの映画館の前で時間をつぶすジジイも多い。レンタルDVDの時代に映画館でポルノを観るのも、老人である。己を奮い立たせて、また勝負に挑むのか。待ち合いロビーでは、やはり映画を観ないで一心不乱にラジオを聴いている勝負師ジジイの姿を多数見ることになる。タバコの煙が濃くて向こうが見えない。


もちろん東京のすべてのジジイがこうだというわけではない。だけど最近の東京は奇麗すぎるというか、むしろこれらの老人の休日の生き様には強い生命の叫びを感じる。本来東京は汚くて当たり前の街である。それは大勢の人間が生きているからこその汚れで、これから老人を目指す若者は少し奇麗すぎるのではないかと余計な心配をしてしまうくらいだ。酒は身体に毒だ、タバコは命を縮める、そんなことを言いながら職場や対人関係のストレスで神経症を病むくらいなら、みんな錦糸町や浅草で老人たちから何か学んだ方がいいかもしれない。「生きてるうちに気持ちいいことをいっぱいした奴が人生の勝ち」なんだな。このジジイどもは、国の、僕らが払う年金を残らず競馬やパチンコに使っているのかと思うとおかしいね。エコロジーはおろか地球の未来などなーんにも考えてない。彼らの世界で半日過ごしただけで、随分気持ちが楽になったよ。
寄稿家プロフィール
ぱるこ・きのした/1965年徳島県生まれ。漫画家、芸術家。教育家。股間で絵を描く表現に端を発し、全身を使った様々なパフォーマンスを国内外でゲリラ的に行い、今では世界中の大規模展覧会の常連ゲリラアーティストとなる。異なる文化圏の世代間の人々と言語を超越した懇親を行う事を作品化している。主な作品に『絵を結婚させるワークショップ』『なぐり描き』『おむすび1ユーロ』『緊急カラオケ会議』映像作品は『特撮ワークショップ』『十日町防衛隊』著書に『漂流教師』『教育と美術』がある。ミクシイネームは公園の木の下。www.digipad.com/digi/parco