

私が東京を想うとき、往々にして懐古趣味的であることが多いのは、もはや読者の知るところだろう。高層ビル建ち並ぶ大都会の喧噪、老若男女多人種交わる雑踏に、目まぐるしく最新のファッションサブカルインフォメーション錯綜するさまも無論素晴らしい。だが、古き良き下町あちこちのお屋敷や教会洋館記念館に老舗の洋食屋など、俗にいうモダンでレトロな場所に出くわせば、たちまち漱石や明治大正昭和初期の文人の私小説読みあさっては、「帝都・東京」に想いを巡らせていた思春期のころに舞い戻り、心持ちなんだか清々しく素直になるから面白い。
先日、美学校の授業で神保町あたりを散策したあと、うまいコーヒーで仕上げるべしと「ミロンガ ヌオーバ」へ。まさにレトロモダンがギッシリ詰まった年代感じさせる褐色の空間にて学生相手に名調子。小一時間のレクチャー済ませてお勘定のレジ前カウンターで、ふと1個のマッチ箱が眼にとまった。『名曲喫茶 ライオン』とある。
「そうだった。オレにはライオンがあった」
いやはや忘れていた。いまや毎日だって歩いて通えるところに暮らしているのに。忘れるほど何年も訪れていないのは何故にといぶかしがるも、「次回は渋谷集合。名曲喫茶ライオンで授業」と決める。

渋谷駅前交差点の人混みかき分け、道玄坂を登ってひょいと右手に曲がれば、ずばりラブホテル街の入り口。ストリップ小屋「道頓堀劇場」のド派手な大看板やら風俗系の呼び込み待ち受けて、たちまち怪しげな空気はりつめる路地を入ってすぐに、それはある。気品格調とは一風異なる一種異様な建物の、見事に朽ちる扉を空ければ、そこに広がる別世界。2階建ての思いのほか広々とした薄暗い空間は、バロックかロココかどうか、なんにしても昭和初期の庶民の考えうるヨーロッパ感がいかんなく具現化されており圧倒される。特筆すべきは店内奥、2階までぶち抜きで祭壇のようにそびえ立つ木造スピーカーだろう。それに向かうように全席が配置され、劇場のようであり、教会のように荘厳ですらある。思えば21年前、ある才女の先輩作家に呼び出され、待ち合わせに指定されたのがここだった。まさにあの日のこの空間への驚きと喜びが、私の東京デビューだったと断言する。もっというなら、私の最初のキャリアであるアートユニット「コンプレッソ・プラスティコ」の、大仰で和洋折衷なインスタレーションの着想はここから拝借したも同然である。読書に調べもの考えごとに最適と自覚して通った。そして、よく眠った。夏も冬も、空調の加減が良いように思えた。華奢なシングルソファのなにげに深い座り心地も手伝うが、やはりクラシックの調べに強い催眠の作用があることを信じざるをえない。言い遅れたが、名曲とはクラシックを指す。
「真のHiFi 立体音響 全館(各階)帝都随一を誇るステレオ音響完備」
絶妙な音質と音量で、客のリクエストに応じた名曲が響く。クラシック音痴の私には、それがマーラーだかワーグナーだかドヴォルザークなのか判然としない。ましてやその指揮をとるのがカラヤンかカロヤンか世界のオザワか何者かなんて知る由もないから、リクエストしようたって無理だ。高尚ぶるつもりではないが、ただただ荘大なオーケストラの演奏に身をゆだね、おもむろに眼をつぶる。考えごとに集中しようとするがそれも束の間、スウーッと落ちるように眠ってしまうのだ。ときおり目覚めればショパン。眼をあけずのまま、座り方首の向きなどもぞもぞ変えて、また夢の続きに戻る。やがて、リクエストのリストを読み上げる店員の声で現実に目覚めるを繰り返したものだ。

こんなこともあった。ユダヤ人女性との密会。静かに肩寄せ合おうと入店したが、勝手知らずのチャキチャキニューヨーカーである彼女、早速お喋りを始めた。「会話ご遠慮ください」な状況を察してもらうべく、なるたけ小声で応対していたのだが、あまりに話が長く音量も次第にあがってヒヤヒヤ。そこへ後方からツカツカと男が歩み寄るなり、「きみたちはボクに、お喋りという雑音を聴かせるつもりなのですか」と一喝。あの時の、アメリカ式のオーバーリアクションで全く意味がわからないといったような彼女の顔、さらに肩を震わせながらも我々をにらみつける、まさにジャパニーズインテリサラリーマンなメガネ男のコントラストといったら傑作だった。そう、ここは名曲にひたすら耳をかたむけなければならない場所。お喋りは禁物。ヒソヒソ話ですら長ければ重罪だ。静粛に!
たぶん10数年振り、教え子3人引き連れ古巣に帰ってきた気分で、迷わずお気に入りの2階席に座ってミルクコーヒーを注文。ソワソワとなにか質問しようとする女生徒の唇を手で封じるなり、先生、即座にカバンからノートを取り出しササッとなぐり書き。
「本日の授業は、すべて筆談でおこなうことにする」
名曲喫茶 ライオン http://lion.main.jp/
営業時間 11:00〜22:30
電話 03-3461-6858
※注意:店内での撮影は原則禁止。今回はお店側に許可とご協力をいただき、特別に撮影させてもらいました。
寄稿家プロフィール
まつかげ・ひろゆき/1965年福岡県生まれ。88年大阪芸術大学卒業。現代美術家。90年アートユニット「コンプレッソ・プラスティコ」でヴェネチア・ビエンナーレ・アペルト部門出展。以後個展を中心に国内外で活動。写真、パフォーマンス、グラフィックデザイン、ライターなど幅広く手掛け、アート集団「昭和40年会」、宇治野宗輝とのロックデュオ「ゴージャラス」でのライブ活動でも知られる。