

六本木と原宿は、全国的あるいは世界的に知られた、おしゃれな町である。この2つの町に共通する歴史がある。それはかつての日本軍の施設と関係している。原宿近くの代々木公園には、日本陸軍の代々木錬兵場があった。また六本木周辺は軍の施設が多く、兵隊の町と言われていた。中でも歩兵第三連隊兵舎が有名で、昭和11年の2.26クーデター未遂の際には、反乱部隊に動員された下士官兵数百人が、ここから出動していった。戦後、それらの日本軍の施設はそのままアメリカの進駐軍に接収され、代々木練兵場にはワシントンハイツという名の米軍兵居住施設が建てられた。原宿や六本木には、そこのアメリカ兵たちを相手にした、欧米風の商店や飲食店が集まるようになり、それがいままでの日本にはない、かっこいい文化だとして若者の心をとらえ、次第にいまの姿に発展していった。

僕は東京郊外の横田飛行場という本州最大の米空軍基地のすぐ横で、10代を過ごした。滑走路から爆音をあげて飛び立ち、ときどき自宅の真上を通過する飛行機が不快であった。ごくまれにUS ARMYと書かれた貨物列車が家の前を通ることがあった。アメリカの建国記念日には基地内でカーニバルがあり、日本人も自由に基地に入ることが出来る。空軍ショーやらバーベキュー大会やら楽しげなイベントがあったそうだ。しかし僕はついに行かなかった。基地の周辺にはやはり米兵相手のピザ屋とか雑貨屋などが並び、高校生の僕には何でも物珍しく、かっこ良く思え、足しげく出かけたものだ。ませた高校生はディスコに行っていたようだ。基地周辺には米軍ハウスと呼ばれるアメリカの郊外のそれとまるで同じような住宅があり、安い値段で借りることができた。70年代には大滝詠一や桑田佳祐 や忌野清志郎や村上龍などが住んでいた時代もあったという。基地周辺の風景は今でも当時の面影を残している。
さて、驚いたことに六本木には未だにアメリカ軍の施設がある。

さっそく六本木に行ってみた。新しく出来たばかりの国立新美術館のすぐ横に、鉄条網で囲まれた赤坂プレスセンターがあった。頑丈そうな鉄条網はものものしいが、予想していたより警備の人は少なく思えた。また敷地内には、人気を感じなかった。
敷地には、米軍の準機関紙である星条旗新聞の日本支社ビルがあった。考えてみれば今まで何度かこのビルの横を通ったがあるが、なぜか見落としていた。

青山公園に入り、林に入るとブルーシートのホームレスの家がやたらとある。このホームレスの家の向こうのフェンス越しに、プレスセンターのヘリポートが広がっている。その向こうには六本木ヒルズだけが顔をのぞかせている。なんともでたらめで、まさに東京そのものの風景だ。このシンプルで複雑な光景は奇妙な美しさを感じさせるから不思議だ。思い出さずいられないのは、数年前の沖縄国際大学のヘリコプター墜落事故だ。沖縄県普天間基地のヘリコプターが、訓練中に大学の建物に接触して墜落し炎上した。不幸中の幸いで乗務員以外に負傷者はいなかったが、消火後、米軍が現場を封鎖し、日本人は政府や警察ですら一切現場に入ることを許されなかった。
もしヘリコプターがこの時のように、例えば六本木ヒルズに激突したらどんなことになるのか? そこに働くビジネスマンや観光客はビルから追い出され、米軍が現場を封鎖し、日本人は入ることを許されないのだろうか? あそこにはテレビ局も、Googleなどもテナントとして入っている。もしそうなったら、初めて東京の人たちは沖縄の人たちの痛みを知ることが出来るのだろうか?
そんな悲劇の風景をつい想像しながらぼんやりヘリコプターの出現を待ったが、この時は現れなかった。
参考:http://www.youtube.com/watch?v=HrJIPHnmRSU


イラクやアフガニスタンのように、首都のまんなかに海外の軍事組織が駐留している先進国は日本だけだそうだ。また、都内で在日米軍基地のヘリコプターが事故を起こしたことは数回あり、一度は横田からこのプレスセンターへ向かう途中で、杉並の中学校に不時着したそうだ。そして、このヘリポートは地元住民の許諾なしに建設された上に、敷地の一部は長いこと都立公園用地を不法占拠したものである。悲しむべきは多くの東京の人がほとんどこの事実を知らないことだ。僕もこの間まで知らなかった。
現在、都内の米軍施設は8箇所もあり、都道府県別の米軍基地の数はトップクラスだ。そして都内の関連施設の合計面積は、渋谷区とほぼ同じである。
追記:今回は府中市立美術館のすぐ隣にある、府中通信施設にも出かけて、とんでもないシュールな光景を撮影してきた。ところが残念、紙面がつきたというか写真を失ってしまった。別の機会に!
寄稿家プロフィール
おざわ・つよし/美術家。1965年東京生まれ。東京藝術大学在学中から、風景の中に自作の地蔵を建立し、写真に収める『地蔵建立』開始。93年から牛乳箱を用いた超小型移動式ギャラリー『なすび画廊』や『相談芸術』を開始。99年には日本美術史への皮肉とも言える『醤油画資料館』を制作。2001年より女性が野菜で出来た武器を持つポートレート写真のシリーズ『ベジタブル・ウェポン』を制作。2004年には森美術館にて個展『同時に答えろYesとNo!』を開催。