
ネタに乏しい千葉県民に気遣ってくれたのか、リアルトーキョーさんから「今度会田さんは上野の美術館で展覧会があるようだから、上野の話はどうですか」と提案された。確かに、5月に上野の森美術館で山口晃クンとの二人展があって、今それに出す新作と悪戦苦闘の日々が続いている。だからといって上野の話なんて書けないよ、と反射的に思ったが、ふと思い出した。そういえば前に一度、疲れた心の中で『上野がある』とつぶやいたことがあったっけ。
あれはいつのことだったか。たしか長い海外滞在から帰国し、電車で成田から東京に向かっている途中だった。40年会のドサ廻りみたいなグループ展でヨーロッパを転々とした後のことだった気もするが、違うかも知れない。

とにかく僕は、東京に近づくにつれただのコンクリの箱みたいなビルが増えてくる窓外の景色を、げんなりして眺めていた。またこの退屈な、無味乾燥な、経済効率とサラリーマンとマーケティング・リサーチとマスコミと広告屋ばっかりの街に戻ってきてしまった、と。もう東京に住みたくないという意識が僕の中で芽生えた、あれが最初の瞬間だったかも知れない。
そんな時だった、くだんの言葉が出てきたのは。
『……いや待てよ。しかし東京には、上野がある』
そうつぶやいてみると、少しだけ心の中が暖かくなった気がした。僕はちょっとだけクスクスと笑ったかも知れない。
しかしなぜ「上野がある」なのか、まともに考えようとはしなかったので、いまだによく分からないが。<了>


今回のエッセーは短く終わっちゃったので、以下、蛇足ながら情報を2つほど。
上野にある「東泉」というサウナが僕のお気に入り。最近も仕事で東京に行った時に使った。仕事は新宿だったのに、わざわざ山手線を半周回って行くくらい好き。京成上野駅のすぐ裏側にある。近くには流行ってないゲーセンやエロ映画館があったりして、ターミナル駅の至近とは思えない場末感が漂う。料金は深夜12時以降に入れば10時間滞在で2940円。割に安いと思う。
女性も利用できる。女性専用仮眠室もあるが、大広間のリクライニング・シートで汚いおじさんたちに混じって眠る若い女性もけっこういる。早朝には仕事帰りの水商売のお姉さんが汗を流しにくる。サウナはどこもそうだが、ここの「人間交差点」っぷりもなかなかのもの。
しかしここのウリはなんといっても窓から見下ろす不忍池の眺め。不忍池のあの独特の空虚感・空洞感は何なんだろう。僕はいつも巨大な虫歯を連想してしまう。その空しい光を浴びながら朝定食を食べていると、悪い意味も含めてしみじみと人生を感じる。

あと、「上野グリーンサロン」という公営のレストランみたいなところもよく利用する。JR公園口を出て斜め右方向に歩くとすぐにある。西洋美術館の手前というか。店内ではなく、外に雑然と置かれたテーブル席がいい。3分の1はホームレス(みたいに見える人?予備軍?そこらへんは曖昧)が日がな一日座っている。ここで僕がやることはただひとつ、セルフサービスの生ビールを買ってきて、青空を眺めながらあおること。いや、もうひとつあった、修学旅行のウブな中学生を眺めること。そんなことをしながら、以前ここで原稿の仕事もしつつ午前から日暮れまでいて、へべれけになったことがある。それくらい僕にとって居心地のいい場所。こういうケチな人間たちに気に入られちゃった店というのは、必ず赤字経営になるから、興味のある人は合理化される前にぜひどうぞ。
追伸。
今書いててちょっと気づいた。なんで「上野がある」なのか。無駄が無駄のまま、合理化をぎりぎり免れているってことね。そのユルさがむしろ「国際標準」だってことね。美術館だって芸大だって西郷さんだってお花見だって、無駄っちゃ無駄だし。東北・上越新幹線も東京が始発になって、上野はますます無駄な駅になりつつあるし。なるほど、僕って根っからの無駄好きだったんだ。自分で納得。
『笑い展:現代アートにみる「おかしみ」の事情』@森美術館
開催中〜5月6日(日)
会田誠、小沢剛+チェン・シャオション(陳劭雄)ほか、世界各国から約50作家が出展
『アートで候 会田誠・山口晃展』@上野の森美術館
5月20日(日)〜6月19日(火)
寄稿家プロフィール
あいだ・まこと/1965年新潟市生まれ、育ち。父親は学術交流で北朝鮮に招かれ、帰国後息子に「チュチェ思想は素晴らしい」などと語った、そっち系の人。最近はかなり老いが進み、終末思想に取り憑かれている模様。母親はGHQが蒔いたアメリカ流人道主義に洗脳された元・理科の先生。ちょっと演歌の旋律を聴いただけで、面白いくらい激しい拒絶反応を示す。このような非(というよりは反)芸術的環境に育ったため、青年期は反動で芸術至上主義者を目指すが、やはり「蛙の子は蛙」の壁に直面し、変な分裂的性格になってしまう。現在は九十九里浜の近くでゆっくりとフェイドアウト中。