



初めて僕の文章を読む人達に短い自己紹介をします。何をしている人かというと、毎日朝早く起きて、電車に乗って某所へ通い、朝9時から夕方5時ぐらいまで、仕事をしています。それから家に帰り、夜遅くに1〜2時間コンピューターに向かって、事務作業をします。
年間のスケジュールがあり、制作したモノを世界へ売り込んでいきます。東京に住んでいる普通の会社員だと思う人もいるでしょうが、職業はアーティストです。筆一本、2つの手、油彩チューブ50本を武器として、魅力的でありながら恐ろしい街、ニューヨークで生活しています。
子供時代はブラジルで過ごしました。少年になってひとりで外出するようになってから、たまにサンパウロにある「リトルトウキョウ」に足を運びました。現在この日本人街はとても寂れてしまいましたが、70年代当時は、まだ元気な移民一世世代がいて、商店街は活気にあふれており、現地の日本語新聞は3紙もあり、日系映画館が2館ありました。ブラジルの普通の社会で育っていた僕には日本という国のイメージが全然ありませんでした。その頃から文化に対して好奇心を持っていたので、ある日一人でその日系映画館に行きました。 『男はつらいよ』というタイトルの映画を観て「うん〜なるほど、これが日本か!」と思いました。父の影響でその頃に黒澤明監督の映画も数本観ていて、映画や日本人街をヒントに日本のイメージを作り上げていきました。大学に入ってから初めて日本に遊びに行きました。バブル全盛期で、女の子はお立ち台で踊りまくっていて、映画で見た原節子のイメージとはとても違っていました。今考えると寅さんや小津安二郎監督の映画 『東京物語』などは、自分にとって初めての東京という大都市との出会いだったのです。大人になり、いつのまにか東京は子供の頃地図の上で見ていた、ただの6文字「Toquio」ではなく、人生の3分の1を生きた場所になりました。
日本で最初に住んだのは、埼玉県浦和市でした。のんびりして良い町でしたが、夢は荒川をこえて都心に住むことでした。当時、湯島にあった建築事務所で仕事をしていたので、そこからもう少し通勤しやすい足立区西新井に引っ越ししました。23区内ではありましたが、同じようにのんびりした町でした。 それから同じ足立区の北千住に移り、ようやく東京らしい生活を始めました。今も北千住に住所があり、そこが僕の日本の「実家」です。この北千住の小さなスタジオから数多くの作品を世の中に出しました。現在、木場の東京都現代美術館に多数の作品を預けているので、時々常設展に展示されています。竹橋の国立近代美術館にも作品がコレクションされているので、こちらにもたまに作品が展示されます。有楽町の第一生命ビルのエントランスホールにも、作品が展示されています。

他にも大泉公園駅など駅前数カ所に野外彫刻が設置されています。 日本に住んだ12年間に行った個展やグループ展の数は、多分100回を超えているでしょう。東京での生活と仕事は順調に回っていましたが、全てに背中を向けて2001年9月11日の同時多発テロ事件の後遺症が残る ニューヨークに飛び立ちました。
「もったいないと思わなかったのですか?」と、たまに聞かれます。でも狭い東京の美術業界の中で、行き先がなくなってしまったと感じて、ニューヨークに「本部」を移しにきたのです。北千住は「支店」になりましたが、仕事の面を除けば東京も住むのに面白い所だと思っています。世界的に成功すれば、また住んでみたい所の一つです。時間はまだかかると思いますが、いつかはアジアも欧米コンプレックスから抜け出して、オリジナルな現代美術とそれを愛する社会が生まれると信じています。そのときには、東京は絶対にアジアのリーダーになれる、未来は明るいと思っています。
寅さんのように、カバンに商品をつめて、旅へ出かけて道でモノを売る時代ではなくなりましたが、ある意味では、同じようなことをしている気がします。カバンに色々なアイデアをつめて、それを売り込むために旅に出かけます。そろそろまた東京に行きたくなってきました。
寄稿家プロフィール
おおいわ・おすかーる・さちお/1965年、サンパウロ生まれ。1989年サンパウロ大学建築学部卒業。主なグループ展: 2002年『アート循環系』(大分市美術館)。2003年『BoaViagem』(宇都宮美術館)。『ジャパン・ライジング』(パームビーチ現代美術インスティテュート)。『旅』(東京国立近代美術館)。2004年『ジャパン・アート・ナウ』(Korea International Art Fair, Seoul)。『国際平和展』(韓国国立現代美術館)。2005年はアリゾナ州立大学美術館で展覧会開催予定。現在、ニューヨーク在住。http://www.oscaroiwastudio.com/