

私の生まれは福岡県の博多である。が、その二年後には父の転勤で県内各地を転々として、小学校からは小倉に落ち着き十二年間を過ごしたので、私の素質は“良くも悪くも”北九州の「小倉っこ」だと言わざるをえない。
製鉄業で栄え、一時期は商業大都市・博多と並ぶ百万人都市だった小倉は、ソープランドスナックキャバレーストリップ競馬競輪場など大人の歓楽賑々しいヤ○ザとヤサグレ者の吹きだまり。ガラの悪さばかりが目立つその街で、学校へ向かえばヤンキーの、家へ帰れば酒乱の父親の理不尽なヴァイオレンス横行炸裂する中、「この芸術砂漠でボクはどう生きていけばよいのだろう」と不安不平を綴った十七の夜。どうにかプチインテリをやりくり貫いた思春期を経て、大阪の大学になかば家出の気持ちで飛び出した時、母や恋人を残したことに後ろ髪ひかれる思いはあったが、大きな解放感にひたったことを強烈に覚えている。
「ふるさと」とは、人がそこから生い立ち、出てゆくところである。
すべてを投げ捨て逃げ出したはずの「ふるさと」小倉に、どうしても忘れられないものがある。「味」だ。それは、料理上手だった母でさえ作らなかった味、基、“街の味”として、深く私の舌の付け根奥底にしみつき、想い出に必ずセットでついてくる味。ズバリ、「とんこつラーメン」なのである。
白濁し底の見えぬ獣の匂いの濃く漂うスープに沈む、繊細で小麦の香りがキチンとする極めて細い麺をサッサとかきこんだ後、紅ショウガを投げ入れピンク色になったスープをグッと飲み干せば、中っくらいのサイズの平たいドンブリの底に屋号やら店主の言葉を見る面白さ。上京して口にしたあれこれのご当地ラーメンには決してないスタイルである。この東京においてラーメンは、どうやら「主食」であると考えられているようで、やたらとドンブリ大きく内容量多く濃く、それがどうにも辟易だが、北九州エリアのラーメンはあくまでも「間食」の感覚で、放課後の、呑んだ後の小腹を満たすためにちょうどよい寸法に出来上がっているからキリリと粋で潔い。
ああ、食べたい。では、あの「とんこつラーメン」を求めて、またふらりと小倉へ舞い戻るか? それは無駄だ。坂口安吾を気取って言い放つなら、「ふるさとに想うものなし」。二十年の歳月を経て皆、転職/倒産/他界、あそこにはもう、あの味はおろか、店も人も匂いも消えてなくなった。

トロットロコラーゲンたっぷりクリーミースープに驚く。もう上出来! としか言いようのない絶妙に臭みのあるスープにカチッと固めの極細麺でマイ No.1の座に輝く。 (クリックで完食!)

博多系にしては濃い目で、あっさり長浜ラーメンの類いとは一線を引く。平打ち細麺と塩メンマの見事なハーモニー。白ゴマを大量に擂って食べるといい。類似チェーンの「福のれん」には気をつけろ。

先代から譲り受けた自家製麺機で練られた中細麺がしっかりしてうまい。塩おにぎり(2個100円)との相性もばっちりのあっさりマイルド系。もやしにキクラゲ、さらにチャーシューも北九州テイスト。よう来たね!
しかし落胆することなかれ、「ふるさと=あそこ」を味覚で実感できる場所が「東京=ここ」にはある。
例えば、秋葉原に出店後、赤坂や原宿にも進出して久しい『九州じゃんがら』の、濃厚な筑豊系スープを追求した「ぼんしゃんラーメン」は、 中高時代一等大好物だった『寿来軒』(いつも厨房で夫婦喧嘩がたえずハラハラさせられた)のラーメンを軽く凌駕しているし、現像所にフィルムやプリントを出す度に通ってしまう西麻布の『赤のれん』は博多の本店より確実に美しく旨い。昭和34年創業の黒崎の名店『唐そば』は、ご主人が老齢で亡くなり店をたたんだと聞いたが、数年前暖簾を受け継いだ息子さんが渋谷に進出、懐かしくもこれぞ北九州系! と静かに唸ってしまうマイルドな味を見事に継承している。
端的に、地方出身者の集合体である東京の底力と言うと大げさかもしれないが、この東京のド真ん中で、それぞれの、あの「ふるさと」の味を再現しようとやっきになって日夜がんばっている人たちがいる。
これもまた東京の、私を惹きつけて止まない大きな魅力である。
寄稿家プロフィール
まつかげ・ひろゆき/1965年福岡県生まれ。88年大阪芸術大学卒業。現代美術家。90年アートユニット「コンプレッソ・プラスティコ」でヴェネチア・ビエンナーレ・アペルト部門出展。以後個展を中心に国内外で活動。写真、パフォーマンス、グラフィックデザイン、ライターなど幅広く手掛け、アート集団「昭和40年会」、宇治野宗輝とのロックデュオ「ゴージャラス」でのライブ活動でも知られる。