
部屋の更新を済ませた。
不動産屋に問いただせば最初の契約が平成7年。
とすると丸10年、この部屋に潜伏したことになる。小倉から大阪の大学へ進み、ひとり暮らしを始めて以来、今まで暮らした物件の中では最長。壁に天井に床に扉に柱の傷のすべてに私が染み付いている。

この部屋は3間。なんとも形容しがたい変則的な形の8畳のキッチン&リビング、安定の良くない黄色いテーブルを中心に東西南北。東側の6畳の畳部屋には壁一面の本棚、真ん中にはドカッとセミダブルのベッドを置いて寝室に、そして4畳半のフローリングはコンピュータ、ステレオ、シンセサイザーなどをどうにか配置して書斎に。自分では「勉強部屋」と名付けているが、勉強嫌いの私にしてみれば近寄りがたい場所で、知らず知らずのうちに結局は物置き同然の様相に変わり果てること多々だ。築25年は経つだろう、天井や床のリノリュウムの模様が時代を物語る。狭いが西陽がそそぐ明るい風呂場の窓から手を伸ばせば小田急線に簡単に届くほどであるから、電車の音がひっきりなしにガタゴトと響き辟易したこともある。古くて騒々しいが、男の独り住まいにしては上等、この部屋であれやこれやと工夫をこらしながら呑み食べ、時に泣き時に笑い時にひらめきつつなんやかやとやらかしてきた。

しかし私は、なにも好き好んでこの部屋に10年も暮らしているワケではない。もっと都心から離れたところに探せば、もっと綺麗で広い部屋を、同じ家賃で借りられるだろうと意見をくれた人もいる。
さらにここ数年の停滞気味の己の精神状態を一新すべく、引っ越しすべしと考えをめぐらしていたのである。会田誠がことあるごとに移転して、その都度○○時代と銘打って生き生きと活動するさまに見習うべしと考えた。が、なにより私は思いのほか腰が重く、一つっ所に根をはる性情。よほどの事態が生じない限りは移動、改心できないのである。先立つ金も無し、度重なる悪質な飲酒癖による慢性二日酔からくる絶対的な倦怠、中途半端な多忙にてんてこ舞いで荷物をまとめる気力も無し。それでまたこの部屋に止まることを余儀無くするのである。

ただひとつだけ、私がこの部屋に暮らすことの誇りのようなものをあげるとすれば「都心である」ということだろう。渋谷区元代々木。エリアでいえば「富ヶ谷」という人が多い。駅なら東京メトロ千代田線の代々木公園駅、小田急線の代々木八幡駅や代々木上原駅。我が世界の中心である原宿へ代々木公園を歩いて抜けて15分、渋谷へも歩いて10分、下北沢にもすぐ。新宿へも小田急で三駅の好立地でありながら、街は静かでどことなくまったりしており、地元の小さな商店街の人たちの近所付き合いも盛んで、秋には神輿も出る下町風情も微量に残る。家賃もほどほどではなかろうか。

私にとって、地方から東京をめざして来て、「東京に住む」ということは、このような街に暮らすことでなければならない。はなはだ馬鹿馬鹿しいかも知れないが、いまだ田舎者、いや地方出身者のツッパリというようなものが私を支えているのである。大きなアトリエや理想のマイホームを求めて郊外へ向うことよりも、有事の際に代々木公園に集合する、いや渋谷交差点で圧死することのほうがまだ大事だ。などと自らに言い聞かせながら、いましばらくはこの飽き飽きするほど慣れ知った部屋と街で格闘する決意を固めた次第である。
寄稿家プロフィール
まつかげ・ひろゆき/1965年福岡県生まれ。88年大阪芸術大学卒業。現代美術家。90年アートユニット「コンプレッソ・プラスティコ」でヴェネチア・ビエンナーレ・アペルト部門出展。以後個展を中心に国内外で活動。写真、パフォーマンス、グラフィックデザイン、ライターなど幅広く手掛け、アート集団「昭和40年会」、宇治野宗輝とのロックデュオ「ゴージャラス」でのライブ活動でも知られる。