
「街角に佇むポルノショウの看板持ちは爪を見る」(中島みゆき『時刻表』)
東京には自分のアパートの一室以外、ちゃんとした「自分の居場所」がない。僕はそんな東京生活を送って来た。家族を持った今でも基本的にその構図は変わっていない。そんな男の「東京案内」に実用性なんてあるわけはなく、今回は単なる下手糞なポエムに成り下がりそうだが、許してほしい。

僕にとって東京とは、とりもなおさず山手線のことである。
これをヤマテと読むのかヤマノテと読むのか未だに分からず、発音のたびにバカにされないか不安になる。しかしそんな田舎者にも、皇居を中心にひたすら周回するその路線は、いかにも単純で分かり易い。マックと牛丼屋とサラ金が必ずあるような、駅前のワンパターンぶりも分かり易い。上京当時、JRはまだ「親方日の丸」な国鉄だったこともあり、山手線には特別な安心感や帰属意識があった。雑多な色の糸をクチャクチャに丸めたようなクレイジーな路線図の地下鉄は、政府関係とか貿易関係とか一握りの人種だけが使う特殊な交通手段と思っていたし。私鉄はサラリーマンのマイホームパパ専用列車にしか見えなかったし。僕は人と東京の地理について話していて、ふと「それって山手線の内側? 外側?」と聞いて、相手に「はあ?」という顔をよくされる。
だから渋谷や新宿には、六本木や下北沢なんかに比べてよく行く。例えば数本のネジを買うためだけに、やっぱり東急ハンズの方が近所の金物屋よりいろいろ選べて便利だからと、わざわざ電車に乗って渋谷まで来たりする。駅からハンズまで歩いて5分、買うのに10分、駅に戻るのに5分。合計20分で用は済む。そのまま切符を買ってさっさと帰ればいい。展覧会間際の一刻の猶予もない時期なのだし……。
しかしどうしても、すんなりと帰る気になれない。雑踏を行く人々の顔、顔、顔。それらを見ていると、妙な胸騒ぎを覚えてくる。今日も憎々しいほどエネルギッシュに蠢く「世間」。そして自分の孤独な部屋を想う。孤独な作業。またあそこに戻るのか……。
馴染みの店なんかない。薄暗い喫茶店なんかに入ったら、よけいに悶々とする。ファーストフードやカフェに40近い男が一人で入っても、少女たちの冷たい視線を感じていたたまれなくなるだけだし……。

そんな時、僕がしばらくいられる場所が唯一ある。言わずと知れた「ハチ公前広場」である。
待ち合わせ場所ではあるが、ここで実際に人と待ち合わせたことはほとんどない。僕がここにいる時は、たいてい人と待ち合わせをしているフリをしているだけである。あたりを見渡したり煙草を吸ったり時計をちらりと見たりと、人待ち顔を作りながら、僕とは縁もゆかりもない赤の他人をつぶさに観察することが目的なのである。
待ち合わせ場所が人々の観察に適しているのは、その滞留時間である。相手が大遅刻の場合は長いが、たいていは10分以内に連れ立って立ち去り、また新しい観察対象が現れる。道行く人では速すぎて、一期一会も一瞬すぎる。逆に飲食店では長すぎるし、じろじろ他人を見るのは憚られる場合が多いし、ビューポイントも限られる。真面目に商談しているビジネスマンをずっと見たって、そうそう面白いものではない。その点待ち合わせ場所では、人を捜すフリをしながらの移動は自然である。
もっとも僕は小説家ではないので、こんな人間観察の成果が直接作品に反映されたことはほとんどない。ディテールをよく見て、情報をたくさん蓄積して、創作活動に備えるつもりでやってるわけではない。
観察と書いたが、むしろ呆然と眺めているといった方が正確かもしれない。ただそうやって、「他人」や「世間」の実在感を感じたいだけなのだ。「みんなといっしょ」にいて、しばらく同じ空気を吸っていたい。でないと、狂ってしまいそうだから。何かそんな精神衛生上の欲求に違いない。そのためにわざわざ山手線に乗って、人のうじゃうじゃ集まる雑踏を目指す。
そして、僕もうすうす気付いているのだ。この待ち合わせ場所に、待つ相手もなく、ただ「いる」だけの孤独な人間が、僕以外にもたくさんいることを。そしてそんな、どうしてもやってしまう僕らの行動パターンの中に、けっして威張れる性質のものではないが、アジア人の血が脈々と流れていることを感じる。
以下手短かに、「東京案内」の義務を一応は果たしておこう。
山手線の主要駅にある待ち合わせ場所の中で、「ハチ公前」はやはり最も人数が多く、人種のバラエティーも豊富なので、「待ち合わせ場所界の横綱」と認定してほぼ異論はないだろう。これからクラブ遊びに繰り出す凄いメイクのギャルもいれば、恥じらうこともなく両手ピースサインでハチ公と記念写真にのぞむ修学旅行生もいる。高級官僚を目指して駒場に通う東大生もいれば、不法滞在のイラン人も、今晩には凍死しそうなホームレスもいる。まさに人間交差点。もちろん、道玄坂ラブホ街があるから、純愛も合コンも不倫も買春も含め、男女が粘膜結合する前哨戦のあやしい空気にも事欠かない。

「新宿アルタ前」はどうも好きになれない。奥行きが狭すぎて、人との距離が近すぎる。人種も、『笑っていいとも!』の客席で「そーですねー」と声を合わせているような、20代後半のほどほどルックスなOLばかりみたいな気がして、興ざめする。新宿なら、待ち合わせ場所にはあまり利用されてないだろうが、コマ劇場近くの映画館にぐるりと囲まれた、曖昧な広場がいい。僕一人の思い込みかも知れないが、あそこには本来噴水があるべきではないか。その幻の水の奔出を感じながら、その幻の水の奔出を感じながら、無機質なコンクリートに腰をおろし、コンビニで買ったビールを飲みつつ、一人意味もなく始発を待つ夜が何度かあった。そんな時にけっこうマシな作品のアイデアが生まれたりする。
「池袋西口公園」は小説やドラマになって、ある意味名高くなったらしいが、残念ながら読んでも見てもいない。池袋という街自体にあまり用事がないので、この待ち合わせ場所にもそれほど馴染みがない。しかしたまに行くと「ハチ公前」よりもっと荒んだ感じがして、興味深いので長居はする。練馬や埼玉を沿線とする立地条件や、西武王国の斜陽が原因であろう、池袋という街全体の「なんか失敗した感じ」が、あの公園には集約している気がする。なんといっても、上野公園よりも生気がないホームレスや地方のヤンキー臭を留める不良たちと、「東京芸術劇場」のギャップ。「アート」ではなく「芸術」という言葉には人一倍愛着が強いつもりだが、なぜかあの建物には敵意を感じ、「ざまーみろ!」と思ってしまう。

上野の「西郷さん」。そういえばいつの間にか「じゅらく」がなくなっていた。あまり行かないから主張する権利もないが、ああいうところは意地でも変わらないでいて欲しい。時代に取り残されたままコールドスリープしていたほうが、いつかもっと貴重な場所になる。もし外人に「日本で最も優れたパブリックアートは何か?」と訊かれたら、僕は迷わず西郷さんを挙げる。
東京駅「銀の鈴」。薄暗い地下に煙草の煙もくもく。みんな俯き気味で無言。他にあまり印象がない。まあ、かつては街の中心的ターミナルが、現在はつまらなくなっているのは、世界の大都市でもよく見られる現象だから、仕方ないことか。
不景気ネタのサラリーマン街頭インタビューでお馴染みの「新橋駅西口SL広場」。昔泊まり込みのバイト先が近くだったからよく行ってたが、う〜ん、やはり僕とはあんまり関係ない場所か。当時近くにボロい立ち呑み屋があって、むしろそっちによく行っていたが、最近行ったら潰れていてショックだった。立ち呑み屋がどんどん消えていくところが、大阪なんかと比べた場合、東京の都市として劣ったところだと絶対思う。
(全撮影:岡田裕子)
昭和40年会 http://www.40nen.jp/
寄稿家プロフィール
あいだ・まこと/1965年新潟市生まれ、育ち。父親は学術交流で北朝鮮に招かれ、帰国後息子に「チュチェ思想は素晴らしい」などと語った、そっち系の人。最近はかなり老いが進み、終末思想に取り憑かれている模様。母親はGHQが蒔いたアメリカ流人道主義に洗脳された元・理科の先生。ちょっと演歌の旋律を聴いただけで、面白いくらい激しい拒絶反応を示す。このような非(というよりは反)芸術的環境に育ったため、青年期は反動で芸術至上主義者を目指すが、やはり「蛙の子は蛙」の壁に直面し、変な分裂的性格になってしまう。現在は九十九里浜の近くでゆっくりとフェイドアウト中。