4weeks

Tokyo 4 Weeks

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085:カメラになった男 写真家 中平卓馬
推薦:浅田彰
Date: September 26, 2006

この人を見よ。

 

1977年に急性アルコ−ル中毒で記憶の大半を失い、ほとんど純粋なカメラ・アイに還元された写真家は、自己解体の手段だったはずの撮影行為を通じて自己再構築の営みを続ける。そのあげくわれわれの眼前に登場するのは、猫のようにしなやかでシャープな「新しい人」だ。中平卓馬。今もなお現役の写真家として走り続ける彼の仕事を、私は横浜美術館での回顧展に際しての講演(『ART iT』第3号掲載)で写真史の大きな枠組の中に位置づけようと試みた。

 

他方、小原真史がヴィデオ・カメラを片手に3年近くにわたって写真家に寄り添いながら撮ったドキュメンタリー『カメラになった男 写真家 中平卓馬』(2003年。2006年初公開)は、日々の不安を、しかしまたそれを突き破るようにして現れる明察と決断の瞬間を描いて、見る者を深く感動させる。写真家が、ショートホープ(短い希望!)のパッケージにメモをとっていくことで、いかに生活を組織していくのか。回顧展で観客を驚かせたあれらの鮮烈な写真——鉄塔や動物やホームレスの写真が、どうやって撮られていたのか。

 

とくに忘れがたいのは、沖縄旅行の場面だ。中平卓馬は、倒れる前、新聞写真を根拠に警官殺害容疑をかけられたデモ参加者を映像の専門家として弁護するために沖縄に行って以来、この島を何度も訪れるようになった。倒れた後もすぐに沖縄に行き、素晴らしい写真を撮っている。とくに私が好きなのは、浜辺で犬と戯れる少年を撮った何気ない一枚なのだが、写真家はこの写真を見てはじめて自分にこういう子どもがいたことを再認したというのである!

 

しかし、それはたんに自己再構築のために必要な過程なので、感傷的なノスタルジーとは何の関係もない。それと同じ意味で、今回の沖縄旅行も、失われた過去の記憶を求めての感傷旅行といったものではない。そのことは、『沖縄マンダラ』と題する写真展を開いていた先輩の東松照明を同輩の森山大道や荒木経惟らと囲んだ、すでに伝説的なシンポジウムのシーンからも、はっきり見て取れるだろう。

 

ステージに掲げられた『写真の記憶 写真の創造』というタイトルを見た写真家は、まずそれに鋭い疑問を投げかける。アメリカ帝国主義が侵攻を続ける琉球=沖縄の現実を、「記憶」や「創造」——「アメリカ語で言えば『メモリー』や『クリエーション』」——といった能天気な観念で捉えられるのか。自分がかねてから主張してきた「ドキュメントとしての写真」——歴史的現実の断片としての写真こそが、そこで求められているのではないか。見事な批判というほかはない。

 

ヴィデオを見るかぎり、東松照明は老獪にも沈黙を守り、森山大道はそそくさと席を立つ。沖縄のことをどのくらい考えているのかと詰問され、自分は政治を抜きにした沖縄の「熱」に惹かれているだけだと答えて一蹴された荒木経惟は、「昨日一緒に踊ったのに」と言って情緒的な共同体への取り込みを図るのだが、中平卓馬はそんなことなど忘れたかのように(本当に忘れていたのかもしれない)そっぽを向くばかりだ。そこに見いだされるのは、『PROVOKE』(中平卓馬らが出していた写真誌)の時代よりさらにしたたかになった、野良猫のように孤独なprovocateur(挑発者)の姿なのである。

 

小原真史は、控えめに、しかし注意深く、この人の姿を追い続ける。そのヴィデオ・カメラを通して見るこの「新しい人」の姿から、われわれは目を離すことができない。

寄稿家プロフィール

あさだ・あきら/1957年、神戸市生まれ。京都造形芸術大学大学院長。同大で芸術哲学を講ずる一方、政治、経済、社会、また文学、映画、演劇、舞踊、音楽、美術、建築など、芸術諸分野においても多角的・多面的な批評活動を展開する。著書に『構造と力』(勁草書房)、『逃走論』『ヘルメスの音楽』(以上、筑摩書房)、『映画の世紀末』(新潮社)、対談集に『「歴史の終わり」を超えて』(中公文庫)、『20世紀文化の臨界』(青土社)などがある。