COLUMN

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Out of Tokyo

126:ジャンルの問題
小崎哲哉
Date: November 10, 2005

写真/飯田研紀

宮藤官九郎と並ぶ今年の岸田國士戯曲賞受賞者、岡田利規が率いるチェルフィッチュの『目的地』を観た(11/5ソワレ。駒場アゴラ劇場)。大規模住宅地開発の草分けのひとつ、港北ニュータウンを舞台に、人間と猫(あるいは人間を演じる役者と猫を演じる役者)が入り乱れる怪作である。この記事は劇評ではないので、ストーリーの紹介はしない。興味のある人は駒場まで出向いて、実際の舞台を観てほしい(11/15まで)。

 

観たことのある人には不要な説明だが、チェルフィッチュの舞台は非常にユニークだ。登場人物の台詞は二重の意味でリアルである。まず、戯曲として書かれた台詞自体が書き言葉としては整っていず、だらだらと、すなわち現実の日常生活で話されている話し言葉にきわめて近いかたちで綴られている。そして役者も、人によって巧拙はあるけれど、まあ、かなりリアルに「あのー、マエダさんがちょっと、てゆーか、マエダさんっていうのは先輩のヒトなんですけど、大学の……」的なその台詞を発話する。その意味では、リアルな演劇で知られるポツドールとも共通するところがあると言える。

 

だが、ポツドールが演技さえもリアルであるのに対して、チェルフィッチュは、これも二重の意味でアンリアルな演技を見せる。ひとつは、原作=戯曲に由来するものだが、役者間の対話がしばしばまったくかみ合わない点。もうひとつは、台詞とはおよそ無関係な、日常的だが奇妙な動きを演技として見せる点。足を掻いたり、蹴りを入れたり、手を振り回したりといった、日常で見ないわけではないが、それを大きく誇張した動作が次から次へと出てきて、観客はリアルとアンリアルの間に、いわば宙づりにされてしまう。

 

かみ合わない会話も誇張された動きも観客の笑いを誘うが、ユーモラスなシーンをつくることだけが劇作家/演出家の目的ではないらしい。最近行われたインタビューで、岡田は以下のように語っている。「僕は『せりふの意味から動きが生まれてくる』というのはうそだと思っていて、むしろそういう『意味が貼りついた動き』は排除していきたいんです。『あれ、今動いてた、オレ!?』という本人が意識せずに動いているレベルの動きこそ、舞台の上で見せたい」(『シアターガイド』12月号。聞き手:乗越たかお)。


写真/飯田研紀

そこでようやく本題に入ろう。今年度の『トヨタコレオグラフィーアワード』に、岡田は『クーラー』という短い作品で応募し、最終選考会に残った末に落とされた。その直後の7月11日に、自らのブログにこう書いた。「トヨタコレオグラフィーアワードに出場したものの、どうやら賞を獲るとか獲らないとか以前の問題だったようだ。僕のやってることは審査委員たちにそもそも『振付』と認められなかったみたい。これは僕に対してのノーである以上に、僕を『振付家である』としてファイナリストに選出してくれた選考委員たちの見解に対してのノーである。喧嘩してほしい」

 

舞踊評論家の武藤大祐は、自身のブログに「審査委員長が『振付ではない』と言い放ったと聞いた」と書き、その後「これまた伝聞の情報」と断りつつ、そういう事実はなかったようだという趣旨のコメントを記している。だが岡田は「僕は僕が『振付ではない』という評価を受けたという認識を、今現在も持っています」と追記し、「喧嘩してほしいというのは、振付とは何かということの議論の契機になればよいと思って」書いたのだと主張した。才能ある虚構創作家のことだから、『トヨタ〜』への応募もこのコメントも、忍び笑いをこらえつつのトリックスター的な挑発ではないかという気もするが、いずれにせよ当事者による「喧嘩」も、非当事者による「議論」も、これまでのところほとんど起こっていないようだ。



写真/飯田研紀

同じ舞台芸術であるダンスと演劇の間の線引きは、もちろん簡単ではないだろう。岡田自身は「交わしている会話自体は、実にくだらない内容で、それが何か別のところに帰結するのが演劇、くだらないままに終わるのがダンス、それくらいの違いしかないです(笑)」と語っている(聞き手:岡野宏文)。このコメント自体挑発的だが、やはり『トヨタ〜』の審査員には、「こんなものは振付ではない」にせよ、「新しい振付の誕生である」にせよ、ひとこと述べてもらいたかった。専門家の中には「チェルフィッチュの無意味な身体的動作には舞踏との共通性が見出せる」と評価する者もいる。その一事をもって『クーラー』や、『吾妻橋ダンスクロッシング』で上演された『ティッシュ』を「ダンスである」と断ずるには無理があると僕は思うが、あんなに面白くて(『トヨタ〜』でも『吾妻橋〜』でも客席は笑いに包まれた)、しかも素人目にはダンスとは思えない(『クーラー』は観客による人気投票『オーディエンス賞』も受賞できなかった)作品について、何もコメントされないというのは不自然かつ不親切である。

 

既製品の便器に偽のサインをしただけの『泉』(1917)は、発表当時、展覧会への出品を拒否された。マルセル・デュシャンのこのスキャンダラスな作品こそが、現代美術と呼ばれることになる新しい表現分野の扉を開いた。チェルフィッチュ=岡田利規の表現が、ダンスを革新するものなのかどうかはまだわからない。だが、境界があるからこそ越境に価値が生じる。また、危険を伴わない越境には越境後の快感(達成感)も与えられない。ダンスを評価するプロには、むずかしい線引きをあえてお願いしたかった。

寄稿家プロフィール

おざき・てつや/『REALTOKYO』『Realkyoto』発行人兼編集長。1955年東京生まれ。京都造形芸術大学大学院学術研究センター客員研究員。趣味は料理。